
なぜ、うちはお寺なのだろう
子どもの頃から、私は時々「なぜ、うちはお寺なのだろう」と考えてきました。家に本堂があり、法事があり、門徒の方が出入りする。それが日常でしたが、当たり前すぎて、その意味はよく分かっていませんでした。
住職となった今も、「なぜ私は住職なのか」「住職とは何をする人なのか」という問いがなくなったわけではありません。むしろ、以前より簡単には答えられなくなりました。
450年余を受け継ぐということ
淨泉寺は天正2年(1574年)に開かれたと伝えられています。450年余続いてきた歴史は、ありがたい一方で、ときに重く感じることもあります。続いてきたから、これからも自然に続くわけではありません。
寺を継ぐことは、建物や土地、寺の名前を受け取ることだけではないのでしょう。そこで大切にされてきた言葉や問い、願いを、今の時代にもう一度聞き直し、次へ渡していくことでもあるように思います。
先生からいただいた問い
大学時代、ゼミの先生から突然、「佐野くん、自分、なんで死ぬ?」と聞かれたことがあります。私は交通事故や病気など、死因のことを答えました。先生は「そうかそうか」と聞くだけで、正解を教えませんでした。
卒業が近づいた頃、もう一度同じことを問われました。そのとき、ようやく私は「生まれたから」と答えました。いつ、どのように死ぬかが生まれた時点で決まっているという意味ではありません。生まれたということの中に、死んでいくいのちを生きるという事実が含まれている。そのことに少し触れたように思いました。
先生は答えを教えず、問いを渡してくださいました。その問いは今も、「では、君はどう生きているのか」と私に残っています。
先代から受け取った言葉
「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ。」
先代がよく口にしていた言葉です。若い頃には、どこまで分かっていたのか分かりません。住職となり、葬儀を勤め、ご家族の話を聞き、お墓の相談を受ける中で、少しずつ違って聞こえるようになりました。
先代から受け継いだものは、本堂や寺の名前だけではありません。こうした言葉も、今の私が聞き直し、また次へ渡していくものなのだと思います。
住職とは、答えを持っている人なのか
住職という立場にいると、何かを聞かれたときに「答えなければ」と思うことがあります。けれども、人の悲しみや人生について、簡単に結論を出せるわけではありません。
私自身、分からないことだらけです。だからこそ、淨泉寺を、分かっている人が分からない人に答えを与えるだけの場所にはしたくありません。分からないことを持ち寄り、ともに仏法を聞くことのできる場所にしたいと思っています。
第17世住職 釋延洋
佐野延洋。1974年生まれ。2023年、第17世住職に就任。学校法人浄泉寺学園の理事長・園長を兼任しています。