
ともに仏法を聞く
お寺というと、仏教のことをよく知っている人が、分からない人に答えを教える場所のように思われるかもしれません。
けれども、私自身、分からないことだらけです。人に大切だと話していることを、自分ではできていない。人の話を聞いているつもりで、最初から答えを決めている。そんな自分の姿を、あとから知らされることがあります。
だから淨泉寺を、分かっている人が、分からない人に答えを教えるだけの場所にはしたくありません。
住職も、お参りに来られた方も、阿弥陀如来のご本尊の前に座り、ともに仏法を聞く。そこで、自分の暮らしをもう一度見つめる。淨泉寺を、そんな場所にしたいと思っています。
分からないことがあるから、お寺へ行けないのではありません。分からないから聞く。聞いてもまた分からないことが出てくる。だから、また聞く。その繰り返しの中に、真宗のお寺の大切な営みがあるのだと思います。
当たり前が、ひっくり返る
毎日あるものは、いつの間にか「あるのが当たり前」になります。体が動くこと。家族と話せること。食事をいただくこと。子どもの声が聞こえること。
ところが、病気をしたり、大切な人を亡くしたり、子どもの何気ない一言を聞いたりすると、それまで当然だと思っていたものが、急に違って見えることがあります。
世界そのものが変わったわけではありません。見ている私の方が、それまで見えていなかったものに気づかせていただく。仏法を聞く中にも、そういうことがあります。
だからといって、病気や別れを「よい経験だった」ときれいにまとめたいわけではありません。つらいものは、つらい。その現実を抱えたまま、それでも何が聞こえてくるのかを大切にしたいと思います。
暮らしの中から聞く
仏法は、本堂の中だけにある話ではありません。
幼稚園の昼食で、一人の子どもが豚汁を見て「ぶたさん、ごめんね」と言ったことがあります。その一言によって、食べ物になる前に、そこにいのちがあったことを、あらためて聞かせてもらいました。
また、私は幼い頃に「子どもの声は、迦陵頻伽の声」という言葉を聞きました。そのときは分かりませんでした。後に自分が親となり、子どもと生活するようになってから、以前とは違って聞こえるようになりました。
大人が子どもへ教えるだけではありません。子どもの言葉や声によって、大人の都合やものの見方が照らされることがあります。
食事。子ども。家族とのすれ違い。仕事。病気。何でもない一日の中にも、仏法を聞くご縁があります。
亡き人をご縁として
先代の住職は、よく「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」と言っていました。
若い頃には、よく分かりませんでした。葬儀もお墓も、亡くなった人のためにするものだと思っていたからです。
住職となり、ご家族の話を聞くようになると、亡くなった方について話していたはずなのに、いつの間にか生きている方自身の話になっていることがあります。「もっと話しておけばよかった」「ありがとうと言いたかった」「あのときは、ごめんなさい」。
亡き人を思うことで、今を生きる自分の姿が見えてくる。葬儀や法事、お墓は、亡き方を大切にする場であると同時に、亡き人をご縁として、生きている私が仏法を聞く場でもあるのでしょう。
分からないことを、持ち寄れるお寺に
作法が分からない。自分の家の宗派もよく分からない。お寺へ何を相談すればよいのかも分からない。そんなところからで構いません。
葬儀や法事、お墓の相談だけでなく、赤ちゃんの初参り、七五三、仏前結婚式など、よろこびの節目にもお参りいただけます。子どもが泣くこともあります。それも含めて、どうすれば一緒にお参りできるかを考えたいと思っています。
すぐに答えの出ることばかりではありません。それでも、一人で抱えていたことを言葉にし、一緒に考える時間は持てます。
住職もまた、教えを聞かせていただく一人として、ともに考える。
淨泉寺を、分からないことをそのまま持ち寄り、南無阿弥陀仏と申して、また仏法を聞くことのできる場所として、次の時代へつないでいきたいと思っています。