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お内仏と日々のお参り
お内仏は、家の中で阿弥陀如来をよりどころに仏法を聞く場所です。位牌・写真・御札などが入っている場合も、気持ちを大切にしながら一緒に整えます。
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家の中にも、仏法を聞く場所を
真宗では、一般に「仏壇」と呼ばれるものを、お内仏(おないぶつ)と呼びます。
お内仏というと、亡くなった家族やご先祖をお祀りする場所、と思われることがあります。もちろん、お内仏の前に座れば、亡くなった方のことを思い出すことがあります。
けれども、お内仏の中心にお迎えするのは、亡くなった方ではありません。ご本尊・阿弥陀如来です。
お内仏は、亡き人を閉じ込めておく場所ではなく、私たちが阿弥陀如来のご本尊の前に座り、手を合わせ、お念仏を申し、仏法を聞く場所です。
お寺の本堂が、家庭の中にもある。そんなふうに考えると、少し分かりやすいかもしれません。
なぜ「仏壇」ではなく「お内仏」なのですか
「仏壇」という言葉を使ってはいけない、ということではありません。一般には、「仏壇」の方がよく通じます。淨泉寺でも、「仏壇について相談したい」とお尋ねいただいて構いません。
真宗では、阿弥陀如来のご本尊をお迎えし、家庭の中で仏法を聞く場所として、昔から「お内仏」と呼んできました。ですから、このサイトでも、必要に応じて、お内仏(仏壇)とご案内します。
中心にお迎えするのは、阿弥陀如来
お内仏の中心は、ご本尊・阿弥陀如来です。真宗大谷派では、中央に阿弥陀如来のご本尊をお迎えします。
私たちは、亡くなった方だけに向かって手を合わせるのではありません。亡き人をご縁として、阿弥陀如来の前に座り、南無阿弥陀仏と申します。
先代住職は、よく、「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」と言っていました。
お内仏もまた、亡くなった方のためだけに置くものではありません。そこに座り、仏法を聞くのは、今を生きている私です。
お内仏を開けると、いろいろ入っています
ご家庭のお内仏を拝見すると、本当にいろいろなものが入っていることがあります。
亡くなった方の写真。位牌。御札。お守り。護摩木。お菓子。お酒。ぬいぐるみ。旅行のお土産。故人が好きだったもの。お孫さんがつくったもの。
「おじいちゃんが好きだったから」「おばあちゃんに見せたくて」「捨ててよいか分からなかったから」そうやって、少しずつ増えていったのでしょう。
私は、その気持ちはよく分かります。大切な人が亡くなれば、何かしてあげたいと思う。好きだったものを供えたい。写真も近くに置きたい。いただいた御札を、粗末にしてはいけないような気がする。処分してよいのか分からないものを、とりあえずお内仏へ置いておく。
それは、亡き人を大切に思う気持ちや、仏さまを粗末にしたくないという気持ちから、そうなったことも多いのだと思います。
ですから、最初から、「これは間違いです」「全部出してください」と言いたいわけではありません。
では、なぜ整えるのでしょう
大切なのは、何が正解かだけではなく、お内仏は何のための場所なのかを知ることです。
お内仏は、亡くなった方の思い出の品を全部集めておく場所ではありません。いろいろな神仏のお札を集めておく場所でもありません。ご本尊・阿弥陀如来を中心に、私が仏法を聞く場所です。
ですから、品物が増えすぎて、肝心のご本尊が見えにくくなっていたら、少し整えてみる。亡き方の写真は、お内仏とは別の場所に大切に飾る。御札やお守りは、いただいた寺社へお返しすることを考える。思い出の品は、思い出の品として大切にする。
それぞれのものを、それぞれの場所へ戻していく。そう考えると、「捨てる」というより、お内仏を本来の場所へ戻していくという感覚に近いかもしれません。
気持ちまで外へ出すわけではありません
「お内仏から写真を出したら、亡くなった人を大切にしていないような気がする」と思う方もいるかもしれません。
でも、写真をお内仏の外へ移すことと、その人を忘れることは同じではありません。お菓子を供えなくなったから、その人への思いがなくなるわけでもありません。ぬいぐるみを別の場所へ移したから、ご縁が消えるわけでもない。
むしろ、亡き人を思う気持ちと、阿弥陀如来のご本尊を中心にするお内仏とを、それぞれ大切にすることができます。
「なぜ今までここに置いていたのか」その気持ちも大切にしながら、少しずつ整えればよいと思っています。
何が正しいか分からなければ、そのままで
お内仏の中を見て、「うちは、ずいぶん違っているかもしれない」と思っても、慌てて全部を片づける必要はありません。
何十年も、その形で手を合わせてきたご家庭もあります。一つ一つ、これは何なのか。なぜここにあるのか。これからどうすればよいのか。一緒に確認しましょう。
写真を送っていただければ、まず現在のお内仏を見ながらお話しすることもできます。分からないのに、自己判断で全部処分する必要はありません。
故人の好きだったものを供えてはいけませんか
「父はお酒が好きだったから」「母は甘いものが好きだったから」と、故人の好物を供えたいというお気持ちがあります。その気持ち自体を、否定する必要はないと思います。
亡くなった方を思い出して、「これが好きだったな」と思う。そこには、大切なご縁があります。
ただ、真宗のお内仏は、亡くなった方へ食べ物や好物を届けるための場所ではありません。中心は、ご本尊・阿弥陀如来です。
だから、亡き人を偲ぶことと、お内仏を整えることを、無理に一つにしなくてもよいのだと思います。
亡くなった人は、どこにいるのですか
大切な人が亡くなると、「お仏壇におじいちゃんがいる」「おばあちゃんに手を合わせる」という言い方をすることがあります。そのお気持ちは、よく分かります。
けれども真宗では、亡き方そのものが、位牌や仏壇の中に宿っている、ということを中心には考えません。
亡き人とのご縁によって、私が阿弥陀如来の前に座り、仏法を聞く。亡き人は、私をお寺やお内仏へ向かわせてくださる、大切なご縁となります。
そう考えると、「亡くなった人のために手を合わせる」だけではなく、亡き人によって、私の方が手を合わさせていただいているとも言えるのかもしれません。
毎日、何をすればよいのでしょう
難しく考えなくても、まず、お内仏の前に座る。ご本尊を仰ぐ。手を合わせる。そして、南無阿弥陀仏とお念仏を申す。そこから始めればよいと思います。
真宗では、朝夕に『正信偈』などをお勤めしてきました。できれば、日々のお勤めを生活の中に置いていただきたいと思います。
でも、「毎朝何時に必ず全部読まなければならない」ということだけが大切なのではありません。まず、ご本尊の前に座る時間を持つ。一分でもよい。南無阿弥陀仏と申す。そこから少しずつ始めてください。
毎日できないのですが
それでも構いません。「毎日できていないから、もうやっても仕方がない」と考える必要はありません。
私自身、仏法について分からないことだらけです。聞いても忘れます。だから、また聞きます。
以前、仏法を聞くことを、穴のあいたザルに水を入れることにたとえた話を教えていただきました。水をすくっても、すぐに抜けてしまう。それでも、ザルごと水に浸しておけば、ザルは水の中にあります。
お内仏の前に座ることも、それと少し似ているのかもしれません。昨日できなかった。今日もできなかった。だから終わりではない。
思い出したら、また座る。また手を合わせる。また聞く。忘れるから、また聞く。 それでよいのだと思います。
『正信偈』は、意味が分からなくても読んでよいのでしょうか
もちろんです。最初から、すべて意味を理解して読める人ばかりではありません。私自身も、何度読んでも、聞き直さなければならないところがあります。
声に出して読む。繰り返し聞く。その中で、何年もたってから、以前には気づかなかった言葉が心に残ることがあります。
ですから、「意味が全部分かってからお勤めする」のではなく、お勤めしながら、少しずつ聞いていく。 そのくらいでよいと思います。
大きなお仏壇がないといけませんか
そのようなことはありません。住宅事情は変わっています。マンション、アパート、小さな住宅、それぞれの暮らしがあります。
大切なのは、仏壇の大きさではなく、ご本尊をお迎えし、手を合わせ、仏法を聞く場所があることです。「置く場所がないから何もできない」と考えず、まずご相談ください。
古くなったお内仏をどうすればよいですか
お内仏が古くなった。家を建て替える。引っ越す。大きなお内仏を小さくしたい。親の家を片づける。そのようなご相談もあります。
長年手を合わせてきたお内仏ですから、普通の家具のように処分することにためらいがあるのは自然なことです。処分する前にご相談ください。
必要に応じて、これまでお参りしてきたご縁をいただくお勤めをし、ご本尊をどうするか、これからどのようにお参りしていくかを一緒に考えます。
子どもと一緒に手を合わせる
子どもに、難しい仏教の説明を最初からする必要はないと思います。
家族がお内仏の前に座る。一緒に手を合わせる。南無阿弥陀仏と申す。亡くなったおじいちゃんやおばあちゃんの話をする。それだけでも、一つの仏法との出会いになります。
大人だって、最初から全部分かっていたわけではありません。一緒に座る。何度も遇う。その中で、いつか言葉が違って聞こえる日が来るかもしれません。
完璧なお参りでなくても
お内仏をきれいに整える。毎日お勤めする。作法も正しくする。どれも大切です。
でも、「全部きちんとできないなら、何もしない」となってしまうのは、少しもったいないと思います。
作法が分からなければ、聞けばよい。忘れたら、また聞けばよい。しばらくお勤めしていなかったなら、今日からまた座ればよい。
お内仏は、立派な仏教徒になった人だけが座る場所ではありません。迷い、忘れ、思いどおりにならない毎日を生きている私が、また仏法に遇う場所なのだと思います。
分からないところから、ご相談ください
「実家に仏壇はあるけれど、自分は何も知らない」「ご本尊がどれなのか分からない」「位牌や写真や御札でいっぱいになっている」「故人の物がたくさん入っている」「何を出して、何を残したらよいのか分からない」「親の家の仏壇をどうすればよいか分からない」どれも、そのままご相談ください。
まず、今までそのようにお参りしてきたお気持ちも聞かせてください。そのうえで、お内仏とは何のための場所なのかを一緒に確かめながら、少しずつ整えていきましょう。
大切なのは、形を完璧にすることだけではありません。家庭の中に、手を合わせ、仏法を聞く場所があること。 そして、忘れても、またそこへ戻ること。
淨泉寺では、日々のお参りについても、分からないところから一緒に考えていきます。