「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」
先代住職の言葉を、葬儀やお墓の現場を通して聞き直す。

先代の住職は、よく、「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」と言っていました。
続けて、「死んだ人のためにやるもんだと思っているけど、本当はそうじゃないんだ」と話すこともありました。
若い頃の私は、その言葉を聞いても、正直なところ、よく分かりませんでした。葬式は亡くなった人のため。墓も亡くなった人のため。そう思う方が自然だったからです。
自分が住職になって
その後、自分が住職となり、葬儀を勤めるようになりました。
亡くなったばかりの方の枕元で、ご家族のお話を伺います。すると、亡くなった方について話していたはずなのに、いつの間にか、生きている方自身の話になっていることがあります。
「もっと話をしておけばよかった」「本当によくしてもらった」「一度、ちゃんと謝りたかった」「ありがとうって言っておけばよかった」
亡き人のことを話しているのに、そこには、今を生きている自分の姿が出てきます。そのたびに、先代の言葉を思い出すようになりました。
葬儀で問われているのは
葬儀は、亡くなった方を大切にお送りする時間です。それは間違いありません。
でも、それだけではないのでしょう。
人が亡くなる。すると、私たちは否応なく、自分の生にも向き合うことになります。
あの人は亡くなった。では、私はいつまで生きるのか。あの人に言えなかったことがある。では、今そばにいる人には、何を伝えているのか。
亡き人の死によって、生きている私の足もとが照らされます。
墓もまた、生きている人が行く場所
お墓も、同じなのかもしれません。そこに納められているのは、亡くなった方のお骨です。でも、墓参りへ行くのは、生きている人です。
花を持って行く。掃除をする。手を合わせる。そして、あの人のことを思い出す。ときには、墓前で初めて口にできる言葉もあるでしょう。
お墓は、亡くなった人を閉じ込める場所というより、生きている人が亡き人とのご縁に、もう一度出遇う場所なのかもしれません。
「迷惑をかけたくない」
最近は、「子どもに迷惑をかけたくないから、お墓はいらない」というお話もよく聞きます。そのお気持ちはよく分かります。
けれども、以前、お墓を持たず海洋散骨にしようと考えていた方が、実際にお子さんへ話してみたところ、きちんと弔いたいというお子さんの思いが分かり、ご家族でお墓を選ばれたことがありました。
話してみなければ、分からなかったのです。親が「迷惑だろう」と思っていたことと、子どもが実際に願っていたことは、同じではありませんでした。
お墓を持つことが、いつでも正解だという話ではありません。海洋散骨という選択が間違っている、ということでもありません。
ただ、自分の中だけで相手の答えを決めてしまわないこと。 それは大切だと思います。
生きている人のため、とは
「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」。
自分が葬儀を勤め、ご家族の話を聞き、お墓の相談を受けるようになって、この言葉が少しずつ違って聞こえるようになりました。
亡くなった方を大切にするからこそ、その方の死をご縁として、生きている自分自身が問われる。どのように生きてきたのか。誰と出会ってきたのか。何を大切にしているのか。そして、自分もまた、いつか死んでいく。
葬式も墓も、死者だけの話ではない。生きている私の話でもある。
今の私は、先代の言葉を、そんなふうに聞かせていただいています。
言葉もまた、受け継がれていく
寺を継ぐというと、建物や土地を受け継ぐことを考えます。でも、先代から受け取ったものは、それだけではありません。こうした言葉もあります。
聞いたときには、分からなかった。何年もたって、自分の経験を通して、少し違って聞こえてくる。そして、また次の人へ渡していく。
先代の言葉を、そのまま「正解」として残すのではなく、今の自分でもう一度聞き直す。
それも、寺を継ぐということの一つなのだと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋