亡き人を訪ねて、私が問われる――「弔い」と「訪い」
亡き人へ何かを届けるだけではなく、亡き人とのご縁から今を生きる私自身が問われる。「訪い」という言葉から弔いを聞き直す。

「弔う」というと、亡くなった方のために何かをすることを思い浮かべます。
お経を読む。花を供える。墓へ参る。亡き人を思う。
どれも大切なことです。
でも真宗の仏事を勤めていると、こちらから亡き人へ何かを届けているだけではない、と感じることがあります。
「訪う」という言葉
古い日本語に「訪う(とぶらう)」という言葉があります。訪ねる、たずね求める、という意味を持つ言葉です。
ここで「弔い」と「訪い」の厳密な語源を決めたいのではありません。
私は、亡き人を弔うという営みの中に、亡き人を訪ね、亡き人から何かをたずねられるという意味も聞いてみたいのです。
前に生まれん者は後を導き
親鸞聖人は『教行信証』の末尾に、『安楽集』の言葉を引いておられます。
前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。
先に生まれた人が後の人を導き、後に生まれた人が先の人を訪ねていく。
人から人へ教えが受け渡され、途切れることなく続いていくという願いが、この言葉にはあります。
亡き人を訪ねる
法事で亡くなった方の話を聞いていると、亡き人を思い出していたはずなのに、いつの間にか生きている方自身の話になっていることがあります。
「あの人には、本当によくしてもらった」
「もっと話しておけばよかった」
「一度、きちんと謝りたかった」
亡き人を訪ねていくと、そこから私自身の生き方が見えてくる。
では私は、今そばにいる人を大切にしているだろうか。
伝えたい言葉を、先送りにしていないだろうか。
自分もいつか死ぬ身であることを、忘れてはいないだろうか。
「してあげる」から、「いただいていた」へ
亡き人の前で手を合わせるとき、私は「何をしてあげられるだろう」と考えます。
でも、手を合わせているうちに、向きが変わることがあります。
私は、この人から何をいただいていたのだろう。
言葉。時間。支え。迷惑をかけたこと。許してもらったこと。
亡き人に何かをしてあげているつもりだった私が、亡き人からいただいていたものに気づかせていただく。
弔いの中に、訪いを聞く
真宗の葬儀や法事は、私たちの行いによって亡き方を成仏させるためのものではありません。
亡き人をご縁として、今を生きる私が仏法を聞く場です。
亡き人を弔う。
そして、亡き人を訪ねる。
その中で、私の方が問われていく。
「何をしてあげられるだろう」と手を合わせた私が、「何をいただいていたのだろう」と手を合わせ直す。
私は、「弔い」の中に、そんな「訪い」を聞かせていただきたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋


