悲しみを、急いで「よい話」にしなくても
悲しみを急いで意味づけず、そのまま仏法を聞くことのできる場所について。

大切な人を亡くした方に、何か言葉をかけたいと思うことがあります。少しでも慰めたい。少しでも楽になってほしい。
だから、「きっと、これでよかったんですよ」「天国から見守っていますよ」「時間がたてば、きっと元気になりますよ」そんな言葉を言いたくなることがあります。
私も、何か言わなければ、と思うことがあります。けれども、本当にその言葉を必要としているのだろうか。最近は、そこを考えるようになりました。
悲しみには、すぐに答えが出ない
亡くなられた直後、ご家族のお話を伺っていると、いろいろな気持ちが一緒に出てきます。
寂しい。悲しい。ありがとう。ごめんなさい。もっと一緒にいたかった。あの判断でよかったのだろうか。時には、亡くなった方への怒りが出てくることさえあります。
一つの感情だけではありません。昨日は泣いていたのに、今日は笑って思い出を話す。その直後に、また涙が出る。
人の悲しみは、そんなにきれいに整理できるものではないのでしょう。だから、急いで一つの意味にまとめなくてもよいのだと思います。
「よい経験でしたね」とは言えない
病気になった。大切な人を失った。つらい出来事があった。後になって、その出来事から何かを学んだ、と思えることがあります。
でも、だからといって、「その経験があってよかった」と外から言うことはできません。
若くして亡くなった方のご家族に、「短い人生だったからこそ意味がありました」とは言えません。病気で苦しんでいる人に、「病気のおかげで大切なことが分かりましたね」とも言えません。
つらいものは、つらい。失いたくなかった人は、失いたくなかった。その事実を、きれいな話によって消してしまいたくないのです。
慰めたいのは、誰なのだろう
悲しんでいる人の前にいると、こちらも苦しくなります。泣いている。言葉が出ない。どうしたらよいのか分からない。
その沈黙に、自分の方が耐えられなくなる。そして、何か「よい言葉」を言って、その場を少し整えたくなる。
でも、もしかすると、慰めたいと思っているその言葉は、相手のためというより、悲しみの前で何もできない自分を安心させるためなのかもしれません。
そう思うと、言葉を急がないことも、大切なのではないかと思います。
まず、そこにいる
「もっと早く病院へ連れて行けばよかった」そう話す方に、「あなたは悪くありません」とすぐ言えば、少し楽になるかもしれません。
でも、その方が今、自分の中で何を悔やみ、何を亡き人に伝えたいと思っているのか。まず、そこを聞く。
「そう思っておられるのですね」と、一緒にそこにいる。答えを出さない。気持ちを消そうとしない。
それも、亡くなられた直後のお勤めの大切な時間だと思っています。
仏法は、悲しみを消すためにあるのか
仏法を聞けば、悲しくなくなる。念仏を申せば、すぐに立ち直れる。私は、そうは思いません。
大切だったから、悲しい。その悲しみまでなくしてしまうことが、救いなのでしょうか。
むしろ、悲しい私。後悔している私。亡き人を忘れられない私。その私が、そのまま仏法を聞いていく。
真宗の仏事では、亡き人をご縁として、今を生きている私が教えにふれることを大切にします。悲しみが消えてから、仏法を聞くのではない。悲しみの中にいる私が、聞いていくのです。
何年たっても
一周忌を迎えた。三回忌を迎えた。だから、もう立ち直っていなければいけない。そんなことはありません。
何年たっても、ふとしたときに思い出すことがあります。匂い。食べ物。季節。音楽。昔行った場所。突然、亡くなった人が、すぐそばにいた頃のことを思い出す。
それでいいのだと思います。悲しみには、決められた時間割はありません。
悲しみを、急いで終わらせない
もちろん、悲しみの中で生活できなくなり、長く強い苦しみが続くときには、周囲の支えや専門家の力が必要なこともあります。
ただ、悲しんでいるというだけで、「早く元気にならなければ」と思わなくてもよい。
泣く日があってよい。笑う日があってよい。「ありがとう」と思う日も、「どうして」と思う日もある。その全部を抱えながら、少しずつ生きていく。
お寺も、その悲しみを急いで「よい話」に変える場所ではなく、悲しみを持ったまま、亡き人をご縁として仏法を聞くことのできる場所でありたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋