君は、なぜ死ぬのか――先生からいただいた問い
大学時代、先生から繰り返し問われた「君は、なぜ死ぬのか」。死を考えることから、生を聞き直した経験。

大学時代、ゼミの先生から突然、こう聞かれたことがあります。
佐野くん、自分、なんで死ぬ?
関西でいう「自分」は、「あなた」という意味です。私は、死因を聞かれたのだと思いました。
がん、心疾患、脳血管疾患。当時よく聞いた日本人の主な死因を答え、交通事故などもある、といった話をしたように思います。
先生は「そうか、そうか」と聞いていました。正解も不正解も言いませんでした。
卒業が近づいたころ
それから時間がたち、卒業が近づいたころ、先生はもう一度聞きました。
佐野くん、君はなぜ死ぬのか。
同じ問いです。けれども、そのとき私は、前とは違う答えをしました。
生まれたからです。
生まれたから、いつか死ぬ。
それは、何歳で死ぬか、何が原因で死ぬかが生まれたときから決められている、という意味ではありません。
死は、人生の最後に突然付け加わる特別な出来事ではなく、生まれたいのちそのものが、死を含んで生きている。そのことに、ようやく気づかせていただいたのです。
先生は、答えを教えなかった
今になって思うのは、先生が最初に「正解」を教えなかったことです。
もし最初に「生まれたからだよ」と言われていたら、私は「なるほど」と覚えて終わったかもしれません。
でも先生は、問いだけを渡しました。
私は一度、的外れな答えをしました。それでも否定せず、数年後に同じことをもう一度聞いた。
同じ問いなのに、聞く私の方が変わっていたのです。
死を考えることは、生を考えること
「君はなぜ死ぬのか」という問いは、死の理由だけを尋ねているのではありませんでした。
生まれたから死ぬのなら、その間を私はどう生きているのか。
いつか死ぬことを知りながら、今日をどのように生きているのか。
先生からいただいた問いは、今では私に「では、君はどう生きているのか」と聞こえています。
答えは、まだ終わっていません。問いを持ちながら、これからも仏法を聞いていきたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋

