言えなかったことが、あとからあふれてくる
枕勤めでご家族のお話を伺うとき、あとからあふれてくる「ありがとう」と「ごめんなさい」について。

枕勤めで、ご家族のお話を伺っていると、いろいろな言葉が出てきます。
「本当によく育ててもらった」「子どもの頃、こんなところへ連れて行ってもらった」――ありがとうの言葉。
その一方で、「もっと早く病院へ連れて行けばよかった」「あの手術でよかったのだろうか」「一緒に旅行へ行きたかった」「うなぎを食べに行こうと言っていたのに」――後悔の言葉も出てきます。
ある方は、義父のことをずっと「お父さん」と呼びたかったけれど、照れくさくて一度も呼べなかった、と話されました。
若い頃に迷惑をかけたのに、面と向かって謝れなかった。そう話される方もいます。
「ありがとう」と「ごめんなさい」は、一緒に出てくる
不思議なことに、ありがとうと、ごめんなさいは、反対の言葉ではないのかもしれません。
大切な人だったからこそ、感謝がある。大切な人だったからこそ、もっとできたのではないかという思いも残る。
後悔は、必ずしも愛情が足りなかった証拠ではありません。むしろ、大切だったからこそ残る後悔もあります。
急いで「気にしなくていい」と言わない
「もっと早く受診させればよかった」と聞くと、「あなたのせいではありませんよ」と言いたくなります。
もちろん、その言葉が必要なときもあります。
でも、まず、その方が何を悔やんでいるのか、亡き人に何を伝えたいのかを聞きたいと思っています。
答えを出して後悔を消すより、その言葉を一緒に聞くことが必要な時間があります。
関係は、きれいには終わらない
人と人との関係は、完成した作品のようには終わりません。
言えなかったこと。分かり合えなかったこと。腹を立てたこと。あとから気づいたこと。
それも含めて、その人との関係だったのでしょう。
葬儀は、生きている私の姿も現す
亡くなった方のことを話していたはずなのに、いつの間にか、生きている自分自身のことを話している。
葬儀では、そんなことが何度もあります。
先代住職の「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」という言葉も、こうした場面を重ねるなかで、私は少しずつ違って聞くようになりました。
言えなかった言葉まで、無理にきれいに片づけなくてもよい。亡き人をご縁として、その言葉を抱えながら仏法を聞いていく。その時間も、弔いの中にあるのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋

