「分からない」と言えるお寺に
分からないことを急いで埋めず、ともに聞く寺でありたいという淨泉寺の姿勢。

私は、分からないことだらけです。
住職だからといって、人生のことがすべて分かっているわけではありません。阿弥陀如来のこと。浄土のこと。信心のこと。生きること。死ぬこと。
聞いてきたつもりでも、簡単に、「分かりました」とは言えないことがあります。むしろ、聞けば聞くほど、簡単には言えなくなることもあります。
答えなければ、と思ってしまう
住職という立場にいると、何かを聞かれたとき、「答えなければ」と思います。何かよいことを言わなければ。相手の役に立つ話をしなければ。そう思う。
でも、その焦りによって、相手の話を十分に聞く前に、こちらの答えを出してしまうことがあります。
特に、大切な人を亡くした方の前では、何か慰める言葉を言いたくなります。「きっと、これでよかったのですよ」「時間が解決してくれますよ」そう言えば、何かしてあげたような気持ちになるかもしれません。
でも、それは本当に相手のための言葉でしょうか。もしかすると、悲しんでいる人の前にいることに、私自身が耐えられなくて、早く答えを出したくなっているだけかもしれません。
分からない、と言うこと
「分かりません」と言うと、無責任に聞こえることがあります。確かに、分かるべきことまで、「分かりません」で済ませてはいけません。
葬儀の日時。法事の流れ。費用。お墓の条件。確認できることは確認し、伝えるべきことは、きちんと伝える。そこは住職としての責任です。
でも、人の悲しみや、その人の人生について、私が簡単に結論を出すことはできません。その違いは、大切にしたいと思っています。
分からないことを、急いで埋めない
人は、分からないことがあると、不安になります。だから、答えを出したくなります。でも、すぐに答えをつくることで、かえって大切なものを見落とすこともあるのでしょう。
大学時代、先生から、「君はなぜ死ぬのか」と問われたことがあります。先生は、答えを教えませんでした。数年たって、私はようやくその問いを違って聞くようになりました。
もし最初に正解だけを教えられていたら、「なるほど」で終わっていたかもしれません。分からないまま持っていたから、問いが残った。問いが残ったから、あとになって聞こえてきた。そういう学びもあります。
何度聞いても、また分からない
仏法も、一度聞けば全部分かるものではないのでしょう。
聞いて、分かったと思う。そして、忘れる。また聞く。また分からなくなる。だから、また聞く。
以前、穴のあいたザルを水に浸すように聞き続ける、という話を教えていただきました。私は、本当にザルのようなものです。聞いても抜けていく。だから、また水へ戻る。
分からないことは、聞くことをやめる理由ではなく、また聞く理由なのかもしれません。
分からないところから
淨泉寺を、何でも分かっている人が集まる場所にはしたくありません。
仏教のことがよく分からない。信じているとも言い切れない。浄土があるのか分からない。念仏の意味もよく分からない。それでも構いません。
私も、分からないことだらけです。
だから、分からないところから、一緒に聞く。少し分かったら、また聞く。忘れたら、また聞く。
淨泉寺を、「分からない」と言ってもよいお寺にしたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋

