ザルを水に浸す――何度忘れても、また聞く
仏法を聞いてもすぐ忘れる。それでも、ザルを水に浸すように、教えの中へ何度も身を置くことに意味があります。

「せっかく法話を聞いても、家に帰るころには忘れてしまう」。そんな話を聞くことがあります。私自身もそうです。
聞いた直後は「なるほど」と思っても、日常に戻れば腹を立て、欲を出し、同じ失敗をします。では、聞く意味はないのでしょうか。
水をすくえなくても
以前、「ザルで水をすくっても残らない。でも、ザルを水に浸せば、その間は水の中にある」と教えていただいたことがあります。
仏法も、全部覚えて持ち帰ることだけが大切なのではないのでしょう。教えの中へ身を置き、その言葉に照らされる時間そのものに意味があります。
忘れる私のための聞法
忘れない立派な人になるために聞くのではありません。忘れる私だからこそ、何度でも聞く。
同じ言葉に繰り返し遇ううち、ある日ふと、自分の言葉や行動が止まることがあります。「あのとき聞いたのは、このことだったのか」と。
ザルのような私でも、また水の中へ入ることはできます。聞法とは、何度でも戻ってこられる道なのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋


