いただいて生きる――稲穂と彼岸
「いただきます」、実った稲穂、「我慢」、彼岸をたどりながら、いただいて生きる私と阿弥陀さまの願いを聞く秋季彼岸会の法話。

一 食べ物がおいしい秋
皆さま、本日は淨泉寺の秋季彼岸会に、ようこそお参りくださいました。
「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが、近頃はお彼岸を迎えても、なかなか暑さが去ってくれません。それでも、朝晩の風が変わり、日が暮れるのも早くなってきます。
秋といえば、読書の秋、スポーツの秋といろいろありますが、やはり身近なのは「食欲の秋」でしょう。
新米に、梨や柿、栗。食卓に並ぶものが変わると、季節が移ってきたことを感じます。
食事の前に、私たちは手を合わせて「いただきます」と申します。
子どもの頃、「ちゃんと手を合わせて、いただきますを言いなさい」と教えられた方も多いと思います。
毎日使う言葉ですから、いつの間にか食事を始める合図のようになっています。手を合わせながら、目はすでにおかずを見ている。箸を持ってから思い出し、慌てて「いただきます」と言うこともあります。
この「いただきます」には、食事を作ってくれた人への「ありがとう」があります。
米や野菜を育てた人、魚を捕った人、食材を運んだ人への感謝もあります。
米も野菜も、魚も肉も、それぞれに生きていた命です。私たちは、その命をいただいて、今日を生きています。
「あなたの命を、私の命としていただきます」
そのような心も、この短い言葉に込めて、手を合わせたいと思います。
二 一膳のご飯と稲穂
一膳のご飯が、私たちの前に置かれるまでには、ずいぶん多くの手がかかっています。
田んぼを耕し、苗を育て、田植えをする人がいます。暑い日にも水の具合を見て、草を取り、稲を守ります。
太陽が照り、雨が降り、大地が稲を育てます。秋になれば稲を刈り、米を運び、精米し、ご飯を炊く人がいます。
そうした働きが重なって、ようやく一膳のご飯になります。
ところが、食べるときには、そこまでなかなか思い浮かびません。
「自分で働いたお金で買ったのだから、自分のご飯だ」と思っています。
けれども、お金を払ったからといって、私一人で米を作ったことにはなりません。太陽も雨も大地も、私の力で用意したものではありません。
自分の力だけでは用意できないものをいただいて、私たちは生きています。そのことを思うと、「いただきます」という言葉とともに、頭が下がります。
秋の田んぼを見ると、実った稲穂が頭を垂れています。
実が入り、穂が重くなるにつれて、少しずつ頭が下がっていきます。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉があります。
知識や経験を積んだ人ほど、謙虚になる。その姿を、実った稲穂に重ねた言葉です。
なるほどと思います。ただ、人間にはなかなか難しいことです。
少し知識が増えると、人に教えたくなります。経験を積むと、ほかの人のやり方が気になります。
「あの人は、まだ経験が足りない」
「私の若い頃は、もっと大変だった」
そんな言葉が、つい口から出てきます。
稲穂は、実るほど頭を下げます。
人間は、少し実ったと思うと、かえって頭を上げてしまいます。
三 「我慢」という仏教の言葉
仏教では、自分に執着し、自分を高く見ておごる心を「我慢」といいます。
普段は「痛くても我慢する」というように、辛抱する意味で使いますが、もともとは、自分へのこだわりを表す言葉です。
たとえば、こんなことはないでしょうか。
家で夕飯をいただくとき、手を合わせて「いただきます」と言い、味噌汁をひと口飲みます。すると、いつもより少し薄い。
「これ、ちょっと薄くない?」
作ってくれた人は、「今日は少し薄めにしたんだよ」と答えます。
そこで「そうか」といただけばよいのに、「いつものほうがよかったな」と、ついもうひと言つけてしまう。
あとで、少し言い方がきつかったかなと思います。でも、自分から言い直すのも何となく照れくさい。そのまま食べ終えてしまいます。
さっき「いただきます」と頭を下げたばかりです。それが、ひと口飲んだところで、「私の好みに合っているか」と採点する側に回っています。
好みを伝えるにも、言い方はあったはずです。ところが、そのときは、自分の好みばかりが前に出てしまう。
ほんの小さなことですが、こういうところに「私が、私が」という心が顔を出します。
しかも、今のお話を聞きながら、「そうそう、うちにもそういう人がいる」と、誰かの顔を思い浮かべているかもしれません。
人の姿はよく見えるのに、自分のこととなると、なかなか見えないものです。
「いただきます」と手を合わせる私も、自分の物差しで相手を測ってしまう私も、同じ私です。
稲穂のように頭を下げたいと思いながら、すぐに頭が上がってしまう。仏さまの教えを聞いていると、そんな自分の姿を知らされます。
四 我慢の私と彼岸
今日の法要は、秋季彼岸会です。
「彼岸」とは、向こう岸という意味です。それに対して、私たちがいるこちら側の岸を「此岸(しがん)」と申します。
彼岸は、欲や怒り、我慢の心を離れた、仏さまの世界です。浄土真宗では、阿弥陀さまの浄土といただきます。
こちらの岸にいる私たちは、自分を中心にして物事を見ています。
自分の考えを通したい。できれば損はしたくないし、人からよく思われたい。
先ほどの食卓の話も、そんな私たちの暮らしの一こまです。
その自分に気づけば、少しは変わりたいと思います。明日からは、もう少し穏やかに話そう。人の言うことも聞こう。
それでも、また腹を立ててしまう。言わなくてもよいひと言を、また言ってしまう。
頭を下げようと思いながら、「どうして私ばかりが」とも思っています。
自分の心を自分の力ですっかりきれいにして、その力で彼岸へ渡ろうとしても、私にはそれができません。
親鸞聖人も、ご自身のうちにある、離れがたい迷いを深く見つめておられました。その聖人が出遇われたのが、阿弥陀さまの本願でした。
『仏説無量寿経』には、阿弥陀さまが法蔵菩薩であったとき、すべての人を救うために、長い長い時間をかけて思いを巡らされたと説かれています。
欲や怒りを捨てきれない者も、自分の力で迷いを離れることのできない者も、決して見捨てない。浄土に迎え、仏にしたい。
その願いを、親鸞聖人は、ご自身に向けられた願いとして受け取られました。
『歎異抄』には、親鸞聖人のお言葉として、このように伝えられています。
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。
「五劫思惟(ごこうしゆい)」とは、法蔵菩薩が、すべての人を救う道を、はかり知れないほど長い時間をかけて考え抜かれたことを表しています。
その願いをよくよく考えてみると、この親鸞一人を救うための願いであった。
「すべての人を救う」と聞くと、私たちは、どこか大きな話のように聞いてしまいます。
しかし、その「すべての人」の中には、なかなか頭を下げられない、この私もいます。
分かっていながら、同じ過ちを繰り返す。多くのものをいただきながら、それを忘れてしまう。
そんな自分を見つめたとき、「この私を見捨てまいと、願ってくださったのだ」と、本願が身に迫ってくるのでしょう。
親鸞聖人の「一人がため」というお言葉には、その深い頷きがあります。
私たちも、仏さまの教えを聞くたびに、自分の姿を知らされます。そして、その私をこそ救おうとする願いが、すでに届けられていたことを聞かせていただきます。
「南無阿弥陀仏」と称える中に、その呼びかけを聞いていくのです。
五 いただいて生きる
お彼岸には、亡くなった方を思い、お墓に参り、お寺に参ります。
亡き方を思うと、自分がどれほど多くのものをいただいてきたかが見えてきます。
毎日の食事を用意してくれた人がいました。心配して声をかけてくれた人がいました。
そのときには、うるさく感じたこともあるでしょう。年月がたってから、「あの言葉は、自分を心配して言ってくれたのだな」と気づくこともあります。
亡き方を思って手を合わせるうちに、自分の言い分ばかりを通そうとしていた姿が、ふと浮かんでくる。言えずにいた「ありがとう」が、ようやく口に出ることもあります。
そのように、亡き方とのご縁を通して、今を生きる自分を振り返らせていただく。お彼岸は、その大切な機会です。
秋の稲穂は、多くの恵みを受けて実り、静かに頭を垂れています。
私たちも、多くの命をいただき、多くの人に支えられて、今日まで歩んできました。
それをすぐに忘れて、また頭を上げてしまう私です。その私にも、阿弥陀さまの願いは届けられています。
今日、家に帰って食事をするとき、いつもより少しだけ、ゆっくりと「いただきます」と申してみてください。
一膳のご飯の向こうに、どれほど多くの命と人の働きがあるでしょう。
私の今日までの歩みにも、すでに亡くなられた方を含め、数えきれない人の支えがあります。
「おかげさまで、今日もいただきます」
そんな思いで手を合わせるとき、いつもの食卓が、少し違って見えてくるかもしれません。
本日のお参りをご縁として、ともに仏さまの教えを聞き、お念仏申す日々を過ごさせていただきましょう。
南無阿弥陀仏。
南無阿弥陀仏。
【引用出典・読み上げ不要】
『歎異抄』後序。東本願寺「真宗聖典検索」 https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=2&page=783
淨泉寺 住職 釋延洋
