私は、笊なんだろう
ザルと水、熏習・燻製のたとえ、何度も聞く。

私は、笊なのかもしれない
私は、分からないことがたくさんあります。仏教のことも、分からないことだらけです。何度も聞いたはずなのに、「あれは、どういう意味だったかな」と思うことがあります。それどころか、私はよく忘れます。どうでもよいことだけではありません。大切なことも忘れます。忘れてはいけないと思っていたことも忘れます。人から受けた恩も、忘れます。ありがたいと思った気持ちも、いつの間にか薄れてしまいます。あんなに反省したはずなのに、また同じことをします。仏さまの教えだって、聞いたそばから忘れていきます。情けないものです。
お寺で話をする立場だから、何でもよく分かっていると思われることがあります。もちろん、学ばなければならないことはたくさんあります。でも、知識を覚えておけば迷わない人間になるかといえば、そうではありません。
むしろ、知っている言葉が増えるほど、「あの人は分かっていない」と人を見てしまうことがあります。自分も分かっていないのに、分かった側に立とうとする。私は、そんなところを教えに照らされます。
笊なら、水の中に置いておけばいい
笊に水を汲んでも、水は抜けていきます。何度汲んでも抜けます。けれども、その笊を水の中に沈めたらどうでしょう。笊の中にも水があります。外にも水があります。水は相変わらず笊の目を通り抜けています。それでも、笊は水の中にあります。このたとえを思うと、私は少し気が楽になります。仏さまの教えを、全部覚えておかなければならないと思うと、とてもできません。正しく理解して、自分のものにして、一生忘れない。そんなことも、私にはできそうにありません。
では、笊のような私は、もう教えを聞いても仕方がないのでしょうか。そうは思いません。覚えていられないから、もう一度聞く。何度も同じことを聞く。それでもよいのでしょう。
ただ、このたとえを「お寺に座っているだけで何も考えなくてよい」と受け取ってしまうと、また自分に都合のよい理解になります。聞くということは、いつも自分の思い込みを問われることでもあるはずです。
香りは、知らないうちに移っている
仏教には「熏習(くんじゅう)」という言葉があります。繰り返し触れたものが、知らないうちに身についていく。そのような説明を聞くことがあります。
たとえば、桜のチップで燻製をつくるとき、煙の香りが少しずつ食べ物へ移っていきます。食べ物自身が「香りを覚えておこう」と努力しているわけではありません。それでも、しばらく煙に触れていると、いつの間にか香りがついています。
もちろん、この燻製の話と仏教の教義を、そっくり同じものとして説明するわけにはいかないでしょう。けれど、私が聞いたことを忘れてしまっても、その言葉に触れた経験がすべて無意味だったとは言い切れないのではないかと思うのです。
教えを聞いた日にはよく分からなかった言葉が、何年か後に違う響きを持って戻ってくることがあります。以前は人ごとだと思っていた言葉が、自分のこととして聞こえてくる。私にもそんなことがあります。
分かったら卒業、ではない
学校で習うことには、覚えたら次へ進めることがあります。問題が解けるようになったら、もう一度最初から習わなくてもよい場合があります。
しかし、仏法は、覚えたことを試験で答えられたら卒業というものではないのでしょう。腹を立てているとき、以前聞いた言葉を思い出せないことがあります。思い出しても、そのとおりにできないことがあります。
それでも、聞き直すことで、自分の姿に気づかされます。同じ言葉を何度も聞いているはずなのに、そのたびに別のところを問われるのです。
同じ教えを、また聞く。そして、「前にはこんなふうには聞こえなかったな」と気づかされる。仏法は、分かったら卒業するものではないのだと思います。
忘れていたことに、また出遇う
私は、できれば忘れない人間になりたいと思います。人に親切にされれば、いつまでも感謝していたい。腹を立てたら、もう同じ過ちを繰り返したくない。でも、現実はそう簡単ではありません。
私が願っているのは、聞いた教えを一度で完璧に理解して、立派な自分になることかもしれません。そう考えている限り、できない自分を責めるか、できていないことを隠すしかなくなります。
けれど、本堂へ来れば、また同じ教えを聞くことができます。前に聞いたはずなのに、また初めて聞くような気持ちになることもあります。
忘れる。だから、また聞く。また忘れる。だから、また本堂に座る。また聞く。その繰り返しの中で、同じ言葉に何度も出遇う。すると、忘れていたはずの言葉が、あるとき思いがけないところから現れてきます。
何度も聞ける場所がある
同じ話を何度も聞くというと、時間の無駄のように感じる方もいるかもしれません。もっと新しい知識を知りたい、もっとよい答えを聞きたいと思うのも自然です。
けれど、昔読んだ本を今読み返すと、以前は目に留まらなかったところが気になることがあります。同じ本なのに違うことが書いてあるように感じる。変わったのは本ではなく、本を読んでいる私のほうなのかもしれません。
仏法を聞くことも、それに少し似ています。何度も聞いた言葉が、家族との別れを経験してから違って聞こえることもあるでしょう。うれしい日の言葉と悲しい日の言葉では、響きも変わります。
自分を立派な笊に作り替えることより、また水の中へ戻ってくる。そんな姿勢で、本堂に座り続けたいと思います。
よく分からず、よく忘れる私だから
それでも私は、よく分からないことばかりです。住職だからといって、答えを全部持っているわけではありません。何か聞かれたときに、一緒に考えさせてもらうことしかできない場合もあります。
ただ、分からないままでも、聞くことはできます。忘れてしまっても、また本堂に座ることはできます。人に教えようとするばかりでなく、私自身が教えを聞く一人として、歩んでいきたいのです。
また聞く。そしてまた、聞く。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋


