お彼岸――亡き人を思う、その足もとで
彼岸という向こう岸を聞きながら、此岸に立つ自分の足もとをたずねる。

――亡き人を思う、その足もとで
春と秋に、お彼岸があります。
お彼岸というと、お墓参りを思い浮かべる方が多いでしょう。家族でお墓へ行く。花を供える。墓石を掃除する。亡くなった方を思う。大切な時間です。
でも、「彼岸」という言葉には、もう少し深い意味があります。
彼岸と此岸
仏教では、迷いや苦しみの世界を、こちらの岸、此岸(しがん)と表します。そして、迷いを離れた悟りの世界を、向こう岸、彼岸と表します。
ですから、彼岸という言葉は、ただ、「亡くなった人のいる世界」という意味だけではありません。
彼岸という世界を聞くことによって、むしろ、今、此岸を生きている私はどうなのかと、足もとの自分自身をたずねる言葉でもあります。
お墓へ行くと、亡き人を思う
墓前に立てば、亡くなった方のことを思います。一緒に過ごしたこと。言われたこと。もっと聞いておけばよかったこと。ありがとう。ごめんなさい。いろいろなことが浮かびます。
でも、そこで手を合わせているのは、今を生きている私です。
先代住職は、「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」とよく言っていました。
お墓参りも、亡くなった方に何かを届けるだけの時間ではないのでしょう。亡き人をご縁として、生きている私の方が、自分の歩みを聞かせていただく。そこに、お彼岸のお参りの意味もあるように思います。
「あの人」を思っていたはずなのに
亡くなった方を思い出していると、いつの間にか、自分のことを考えていることがあります。
「あの人は、こんなことを言っていた」と思い出して、では自分はどうだろう、と思う。「もっと大切にすればよかった」と思って、では今そばにいる人を、大切にしているだろうか、と思う。
死者について考えていたはずが、生きている自分へ問いが返ってくる。亡き人は、そういうご縁にもなります。
彼岸へ行くのではなく
「彼岸」というと、死んだ後、いつか自分が向こう側へ行く、というイメージを持つこともあります。もちろん、真宗では往生浄土を大切にします。
ただ、彼岸の教えを、死後だけの話にしてしまうと、今の私とは遠くなってしまいます。
彼岸という清らかな世界を聞くことによって、自分が今立っている此岸の姿を知らされる。
私は、どんな欲にとらわれているのか。誰を責めているのか。何を当たり前にしているのか。何をよりどころに生きているのか。
彼岸を聞くことは、今を生きる自分を聞くことでもあるのでしょう。
春と秋、二度あること
お彼岸は、春と秋の年二回あります。「半年しかたっていないのに、また同じ法要をする」と思うこともできるでしょう。
でも、春の私と、秋の私は、同じではありません。半年の間にも、出会いがあります。別れがあります。病気になることもある。家族の状況が変わることもあります。
同じ法話を聞いても、以前とは違って聞こえるかもしれません。だから、またお参りする。また手を合わせる。また聞く。何度も同じ場所へ戻る。
私は、そのことを大切にしたいと思っています。
向こう岸を聞いて、こちら岸を生きる
お彼岸には、お墓参りをする。それで終わりではなく、ほんの少し、自分自身にも目を向けてみる。
亡き人を思う。そして、その亡き人に出遇った自分は、今をどう生きているのか。
彼岸という向こう岸を聞きながら、此岸に立つ、この私の足もとをたずねる。
お彼岸を、そんな仏法を聞くご縁としていただければと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋

