お数珠の法話――一本の糸に支えられて
数珠をつなぐ一本の糸から、私を離さない御仏の願いを聞く。

小さい頃のことです。お寺でお数珠を持つときに、「お数珠は御仏の心だ」と聞いたことがあります。
その頃の私は、正直なところ、何のことかよく分かりませんでした。ただ、その言葉だけが残りました。
珠は、なくならない
お数珠には、たくさんの珠があります。百八の煩悩を表すと聞くこともあります。
欲しい。腹が立つ。妬ましい。自分が正しいと思う。分かってほしい。認めてほしい。
私の中には、いろいろなものがあります。
仏法を聞いたら、それらが全部なくなって、立派な人になるのでしょうか。
お数珠を見ると、珠は全部そこにあります。
珠は全部そこにある。そして、その珠の一つ一つを、一本の糸が貫いています。
「不断煩悩得涅槃」
親鸞聖人の『正信偈』には、「不断煩悩得涅槃」とあります。
煩悩を断ち切ってから救われるのではない。煩悩を抱えたこの私が、そのまま如来の願いの中にある。
お数珠の一本の糸を見ていると、私はその言葉を思います。
珠の方が、自分で糸につかまっているのではありません。
糸の方が、珠を貫いている。
私が仏さまを忘れても、仏さまの方は私を忘れていない。
私が迷い、腹を立て、間違うその時にも、この私を見捨てまいとする願いがある。
それを私たちは、阿弥陀如来の本願と聞いてきたのでしょう。
何十年もたって、また聞く
子どもの頃には分からなかった「お数珠は御仏の心だ」という言葉が、何十年もたってから、少し違って聞こえるようになりました。
私の喜びも、悲しみも、迷いも、間違いも、生も死も。
そのすべてを貫いて、この私を決して見捨てない願いがある。
お数珠を手にするとき、私はその一本の糸を、そんなふうに聞かせていただいています。
淨泉寺 住職 釋延洋