今日、この子がここにいる――当たり前ではないいのち
怖がらせるためでなく、今日のいのちがあることを仏前で喜ぶ。

【初参り法話】おめでたい日に、少しだけ別の話を
お子さまの初参り、まことにおめでとうございます。
はじめてお子さんをお寺に連れて来る日です。抱っこされて眠っている子もいれば、慣れない場所に驚いて泣く子もいるでしょう。赤ちゃんには今日のことを覚えておくのは難しいかもしれません。でも、ご家族にとっては、きっと心に残る日になると思います。
今日は、おめでたい日です。
そんな日に、少し意外に思われるかもしれないお話をさせてください。お寺だからこそ、ここでご一緒に考えたいことがあります。
それは、死ぬということです。
もちろん、これは今日ここにいらっしゃる皆さんを怖がらせるために申し上げているのではありません。
生まれたばかりのいのちを前にして、私たちは「この先、元気に育ってほしい」と心から願います。私もそう願っています。ただ、その願いを持つ私に、先のことを決める力があるかと問われれば、ありません。そのことを確かめるために、今日は少しだけ、いのちの話をしたいのです。
今日も息をしていること
親になったとき、赤ちゃんの寝顔を何度も確かめた方もいらっしゃると思います。静かに眠っていると、ちゃんと息をしているだろうかと、そっと顔をのぞく。そんな経験があるかもしれません。
乳幼児突然死症候群、SIDSという言葉をご存じの方もいるでしょう。こども園では少し寒くなってくると、しきりに注意喚起が来ます。
原因が十分に分からないまま、乳幼児が突然亡くなることがあるという事実を前にすると、親である私たちは不安にもなります。
ここで医学的な予防方法をお話ししようというのではありません。医療機関や公的機関が示す安全な睡眠環境など、できる対策は大切にしていただきたいと思います。そのうえで、できるだけのことをしても、いのちのすべてを私たちの思いどおりにはできない。その事実に向き合いたいのです。
今、抱っこしているこの子が、こうして息をしている。そのことを、当たり前という一言で通り過ぎたくないのです。
子どもは、私のものではない
子どもが生まれると、親はたくさんの願いを持ちます。元気でいてほしい。友だちに恵まれてほしい。苦労をしないでほしい。幸せでいてほしい。その願いは自然なことでしょう。
しかし、子どもは親の願いをすべてかなえるために生まれてきたわけではありません。私の分身でも、私の持ち物でもない。その子自身のいのちを生きています。
頭では分かっていても、毎日の暮らしでは、どうしてこんなに泣くのだろう、どうして思ったとおりにならないのだろうと、つい自分の都合が前に出ます。子どもを育てているつもりの私が、子どもから自分の姿を教えられることも多いのです。
仏さまの教えを聞くということは、理想の親になるための正解を全部教えてもらうことではないと思います。思いどおりにならない自分も含めて、いのちを生きる私の姿を問い直されることなのでしょう。
私たちが約束できないこと
私は「これから先、何があっても大丈夫です」とは言えません。それを言えたら、どれだけ安心でしょう。でも、誰も人生の先まで保証することはできません。
だから、お参りは「悪いことが起きないように、仏さまに守ってもらう契約」をする日ではないのです。思いどおりにならない人生を歩む私たちに、阿弥陀さまの願いが向けられていることを聞く日です。
親としてできることは、今日、抱きしめること、声をかけること、必要な手を差し伸べること。そして、これからも周りの人と助け合いながら育てていくことです。すべてを一人で背負わなくてもよいのだと思います。
迦陵頻伽の声を聞く
子どもの頃に「子どもの声は迦陵頻伽の声だ」という言葉を聞きました。迦陵頻伽は、仏典に現れる、美しい声の鳥です。子どもだった私は、その意味がよく分かりませんでした。
自分が親になって、泣き声や笑い声に囲まれて暮らすようになり、昔の言葉がふと戻ってきました。声を出さないようにさせることだけが、お寺でのお参りの形ではないのかもしれません。
泣き声がしたら、周りの人も気になるでしょう。安全や体調への配慮も必要です。それでも、子どもの声があるということを、お寺は喜べる場所でありたいと思います。いつか、あの声が懐かしくなる日が来るかもしれないのですから。
親もまた、支えられている
生まれたばかりの子どもにとって、家族はとても大切な存在です。けれど、育てる人にも助けが必要です。一人で抱え込んでしまう日もあるでしょう。思いどおりにならないとき、弱音を吐いてもよいのだと思います。
初参りは、ご家族が立派に子育てをしていることを証明する場ではありません。今日ここにいる人たちが、これからも一緒に歩いていくことを喜ぶ場です。お寺も、その歩みの中で、悲しいときや迷ったときに手を合わせられる場所でありたいと願っています。
亡き方との別れがある人生だからこそ、今の暮らしがかけがえのないものとして見えてくることがあります。けれど、そのありがたさを一度分かったら、二度と忘れないというわけにはいきません。私も忘れては、また教えを聞き直すのです。
いのちを喜ぶ、ということ
限りがあるからこそ大切にしなければならない、と簡単にまとめることもできるでしょう。しかし、私はそれだけではない気がしています。限りがあると分かっても、私たちは同じように腹を立て、同じように心配し、同じように忘れます。
それでも今日、お子さんを連れて、お寺に集まってくださった。家族や友人が、いのちを喜んでいる。この事実を、そのまま受け取ってよいのだと思います。
今日ここに、このいのちがあるということを、仏さまの前で喜ぶ日
初参りとは、そういう日なのではないでしょうか。私たちの都合どおりに育てると誓う日ではなく、この子がすでに願われているいのちだと聞き、今日の出遇いを喜ぶ日です。
生まれてきてくれて、ありがとう
今日、この子がここにいる。そのことを、ご家族皆さんと一緒に喜ばせていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋


