盂蘭盆会法要 法話
亡き方とのご縁を通して、今の私が仏法を聞く。

お盆に、もう一度たずねたいこと
盂蘭盆会法要にようこそお参りくださいました。
お盆には、ふだんは遠くで暮らす家族が帰省したり、お墓に手を合わせたりします。暑いさなかに、お線香の香りや蝉の声を聞いていると、かつて一緒に過ごした人のことを思い出すことがあります。
その人が好きだった食べ物や、何気なく口にした言葉。亡くなった直後には悲しみで思い出せなかったことが、何年かたって、ふいに胸に浮かぶこともあります。
今日は、亡き方に何かをしてあげることだけでなく、亡き方をご縁として、いま生きている私が何を聞くのかということを、皆さんと一緒に考えたいと思います。
盂蘭盆の話を聞く
「盂蘭盆」という言葉は、インドの古い言葉 ウランバーナ(Ullambana)に由来し、「逆さ吊り」という意味を持っています。これは、逆さに吊られるような、どうにもならない苦しみを表しています。「盂蘭盆経」には、目連尊者が亡き母の餓鬼道での苦しみを救おうとして、釈尊に相談した場面が説かれています。
この由来の説明には、古くから伝わる説があり、語源については検討の余地もあるとされています。今日は語源を一つに決めることよりも、伝えられてきた物語から何を聞くのかを大切にしたいと思います。
目連尊者は、母を思う心から行動を起こします。母を大切に思う気持ちは、私たちにもよく分かります。しかし、どうしても思いどおりにならない苦しみの前では、「自分の力だけで何とかしてあげたい」という願いが行き詰まることもあります。
この物語を、亡くなった人が必ずどこかで苦しんでいるという話として受け取りたくなります。でも、私はむしろ、他者を思う私自身の姿や、思いどおりにはできないという事実をたずねる縁として聞きたいのです。
浄土真宗のお盆
浄土真宗では、お盆のお勤めを、亡き人が帰って来るための儀式や、私たちの力で亡き人を救うための儀式とは考えないとします。亡き人との別れをご縁として、阿弥陀さまの教えを聞く大切な法要です。
とはいえ、亡くなった方の好きだったものをお供えしたい、懐かしい家族の話をしたいと思う気持ちを、否定する必要はないと思います。懐かしいと感じること、寂しいと感じること。その一つひとつも、ご縁の中で起こることでしょう。
ただ、手を合わせる私が、いつの間にか「これだけしてあげたのだから安心だ」と思い始めることがあります。そこには、亡き人を思う気持ちと一緒に、自分が安心したい気持ちもあるのではないでしょうか。
盂蘭盆のご縁は、亡き方を思い起こすことによって、自分自身が今、仏法に遇うべき存在であると知らされる時です。
思い出は、きれいなものばかりではない
亡き方のことを話すとき、私たちは「優しい人でした」「よくしてもらいました」と、よい思い出を語りたくなります。もちろん、それも大切です。しかし、亡くなったからといって、つらかった記憶が消えるわけではありません。
仲直りできなかった人もいるでしょう。もっと話したかったのに話せなかった人もいます。亡き方を思う心は、感謝だけでなく、悔いも、腹立たしさも、寂しさも入り交じっているものだと思います。
仮に、お寺が、悲しみをすぐ立派な話にまとめなければならない場所であったら、私は息苦しいと思います。「寂しい」「まだ受け入れられない」と言える人が、そのままお参りできる場所でありたい。私自身も、答えを急いで渡すことのないように気をつけたいのです。
してあげられなかったこと
亡き方の前で手を合わせると、「あの時こうすればよかった」と思うことがあります。「もう一度会えたら」と願うこともあります。でも、時間は戻りません。亡くなった人に、こちらの思いどおりの言葉を伝え直すこともできません。
では、その思いをどうしたらよいのでしょう。私は「忘れて元気になりなさい」とは言えません。思い出して涙が出る日があってもよいのだと思います。亡き人とのご縁は、悲しみがすっかり消えたときにだけ大切になるものではありません。
そのような思いを持つ私が、本堂に座って教えを聞く。自分の力では整理できないものもあると知らされる。そのところに、仏事の意味があるのではないでしょうか。
私に向けられた呼び声
私たちは日々、忙しさや都合の中で、自分中心の物差しで生きがちです。
私は、そうだなと思います。人には優しい言葉をかけなさいと言いながら、家族にはついきつい言い方をする。健康に気をつけているつもりで、身体からの声を聞いていない。感謝を口にしながら、してもらったことを忘れてしまう。
亡き方を思い出したときに、「あの人が生きていたら、私はどんな言葉をかけただろう」と考えることがあります。言えなかったありがとうも、ごめんなさいも残ります。どれほど時間がたっても、悔いがなくならないことがあります。
だからといって、過去を修正することはできません。私が何とかして立派な人間になってから、お念仏申すのでもありません。思いどおりにならない私をこそ、阿弥陀さまが願い続けてくださる。その教えを、何度でも聞かせていただきます。
「南無阿弥陀仏」という名号は、その願いが私に届いた証であります。
亡き方を訪ね、私が問われる
お墓に参ると、墓石に刻まれた名前や年月日を眺めることがあります。生きていたころは、あんなに当たり前のように名前を呼んでいたのに、いまは会うことができません。
その前で、ふと、自分もまた限りあるいのちを生きているのだと知らされます。予定している明日が、必ずやって来るわけではありません。先ほどまで当然だと思っていた毎日が、少し違って見えてくるのです。
亡き人が、私に答えを一つくれるわけではありません。けれど、「いま生きているあなたは、何を大切にしていますか」と問いかけられるように感じることがあります。法事は、そういう時間でもあるのでしょう。
お念仏は、心を強くする合言葉ではない
法話を聞いたから、明日から悲しまない。お念仏を申したから、もう不安にならない。私はそんなことは言えません。大切な人を思えば、寂しくなるのが自然です。心が揺れるのも、私たちが生きているからでしょう。
「南無阿弥陀仏」というお念仏を、私は自分の気持ちを好きなように変えるための呪文として受け取りたくありません。苦しむ私が、すでに願われていることを聞かせていただく。そのご縁として、お念仏を申していきたいと思います。
もし、今日のお話を聞いても何も変わらなかったと感じる方がいても、それでよいのだと思います。私もいつも、聞いたらすぐ変わる人間ではありません。だから、また聞くのです。
暮らしの中へ戻っていく
法要が終われば、皆さんはそれぞれの暮らしに戻ります。忙しさも、悩みも、すぐにはなくならないでしょう。私もまた、今日聞いたことを忘れながら生活していきます。
それでも、朝の食卓で手を合わせるとき、亡き方の笑顔を思い出したとき、誰かにきついことを言ってしまったとき。今日聞いた言葉が、ふと自分に返ってくることがあるかもしれません。
お盆は亡き方を忘れないための日であるとともに、忘れがちな自分の姿を聞き直す日でもあります。皆さんとともに、そのご縁をいただけたことを有り難く思います。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋


