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真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

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法話 読む目安 約2分

ラーの鏡には、私はどう映るのだろう

人を映して裁くのではなく、自分自身の姿を映し出す教えとして仏法を聞く。「私はどうだろう」と我が身へ返る法話。

ドラゴンクエスト、小さい頃やり込んだ記憶がある方も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人です。

そう、ゲーム『ドラゴンクエストII』に、「ラーの鏡」という道具が出てきます。

呪いによって犬っころに姿を変えられていたムーンブルクの王女にその鏡を使うと、本来の姿が明らかになります。

ゲームをしたことのある方なら、覚えている方もいるかもしれません。

鏡は、人を裁くためのものだろうか

もし、自分の本当の姿を映す鏡があったら、私は何を映そうとするでしょう。

つい、まず人に向けたくなるかもしれません。

「あの人の本性を映してやろう」

「あの人がどれほど自分勝手か、はっきりさせたい」

けれども、鏡というものは、本来こちら側の私自身も映します。

仏法を聞くと、人のことがよく見える

「人は自分の正しさに執着します」と聞くと、「まさにあの人だ」と思う。

「欲にとらわれています」と聞くと、欲深い誰かの顔が浮かぶ。

「人の話を聞きましょう」と聞くと、人の話を聞かない人へ聞かせたくなる。

私には、そういうことがあります。

教えを聞いているのに、その教えを鏡として自分に向けず、他人を映す道具にしてしまうのです。

ラーの鏡に、私を映したら

では、その鏡を自分へ向けたら、何が見えるのでしょう。

優しいつもりでいた私。正しいつもりでいた私。分かっているつもりでいた私。

その奥に、怒り、欲、嫉妬、見栄、自分を守りたい思いが見えてくるかもしれません。

もちろん、仏法はゲームに出てくる魔法の鏡ではありません。

けれども教えを聞く中で、自分では見たくなかった自分の姿を知らされることがあります。

本当の姿を知ることは、絶望することではない

自分の嫌なところが見えたら、それで終わりなのでしょうか。

真宗の教えは、「そんなお前だからだめだ」と突き放すために、私の姿を明らかにするのではないのでしょう。

その私を見捨てない阿弥陀如来の願いを聞くからこそ、自分を飾らずに見ることができる。

できた人間になってから救われるのではなく、煩悩を抱えたこの私に願いが向けられている。

また鏡を覗く

一度自分の姿を見たら、二度と間違わなくなるわけではありません。

私はすぐ、人のことばかり見ます。

だから、また聞く。

また鏡を覗く。

そして、もう一度、自分に返ってくる。

私は、どうだろう。

仏法を聞くとき、この問いを忘れずにいたいと思います。

この記事のテーマ
ものの見方煩悩自省

淨泉寺 住職 釋延洋