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真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

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法話 読む目安 約2分

教えを、凶器にしていないか

仏教のことばや「正しさ」を、他人を裁くための道具にしていないか。知るほど頭が下がる教えの聞き方を考える。

仏教のことを少し知るようになると、不思議なことが起こることがあります。

以前は知らなかった言葉を覚える。作法も分かる。教義についても少し説明できる。

すると、知らない人を見て、心の中でこんなことを思うことがあります。

そんなことも知らないのか。

教えを学んでいるはずなのに、その教えによって自分が偉くなったような気がしてしまう。

正しい言葉は、人を傷つけることもある

教えそのものが悪いわけではありません。

でも、正しい言葉を、私は人を裁くために使うことができます。

「それは真宗の教えと違います」

「そんな受け止め方ではだめです」

内容として間違っていないことでも、言い方や向け方によっては、相手を打ちのめす凶器になります。

正しいことを言っている自分が、いつでも正しい人間であるとは限りません。

教えは、まず誰に向けられているのか

仏法を聞いたとき、私はすぐに「あの人に聞かせたい」と思うことがあります。

でも、その瞬間に、教えを聞かなければならない本人が一人だけ外へ出ています。

私です。

人の欲深さは見える。人の傲慢さも見える。人の間違いもよく見える。

では、その教えを聞いている私はどうなのか。

そこへ戻されなければ、せっかくの教えを、私は人を殴る棒に変えてしまうのでしょう。

「分かりません」と言えること

住職という立場にいると、分からないと言いにくくなることがあります。

何か聞かれたら答えなければならない。知っていて当然だと思われる。

でも、分からないことを分かったふりで埋めるより、「そこは私も、もう一度聞かなければなりません」と言える方が大切なこともあります。

知らないことが恥なのではありません。

知識を持ったことで、人を見下すようになる方が、よほど怖い。

知るほど、頭が下がる

仏法を学んだ結果、人より高いところへ登っていくのではなく、自分の姿を知らされて頭が下がっていく。

私は、そんな聞き方をしたいと思っています。

教えを握って、人を殴るのではない。

教えの前に、私自身も座る。

「あの人はどうだ」より先に、「私はどうだろう」と聞く。

教えを、凶器にしていないか。

この問いは、まず私自身に向けておきたいと思います。

この記事のテーマ
正しさ聞法自省

淨泉寺 住職 釋延洋