教えを、凶器にしていないか
仏教のことばや「正しさ」を、他人を裁くための道具にしていないか。知るほど頭が下がる教えの聞き方を考える。

仏教のことを少し知るようになると、不思議なことが起こることがあります。
以前は知らなかった言葉を覚える。作法も分かる。教義についても少し説明できる。
すると、知らない人を見て、心の中でこんなことを思うことがあります。
そんなことも知らないのか。
教えを学んでいるはずなのに、その教えによって自分が偉くなったような気がしてしまう。
正しい言葉は、人を傷つけることもある
教えそのものが悪いわけではありません。
でも、正しい言葉を、私は人を裁くために使うことができます。
「それは真宗の教えと違います」
「そんな受け止め方ではだめです」
内容として間違っていないことでも、言い方や向け方によっては、相手を打ちのめす凶器になります。
正しいことを言っている自分が、いつでも正しい人間であるとは限りません。
教えは、まず誰に向けられているのか
仏法を聞いたとき、私はすぐに「あの人に聞かせたい」と思うことがあります。
でも、その瞬間に、教えを聞かなければならない本人が一人だけ外へ出ています。
私です。
人の欲深さは見える。人の傲慢さも見える。人の間違いもよく見える。
では、その教えを聞いている私はどうなのか。
そこへ戻されなければ、せっかくの教えを、私は人を殴る棒に変えてしまうのでしょう。
「分かりません」と言えること
住職という立場にいると、分からないと言いにくくなることがあります。
何か聞かれたら答えなければならない。知っていて当然だと思われる。
でも、分からないことを分かったふりで埋めるより、「そこは私も、もう一度聞かなければなりません」と言える方が大切なこともあります。
知らないことが恥なのではありません。
知識を持ったことで、人を見下すようになる方が、よほど怖い。
知るほど、頭が下がる
仏法を学んだ結果、人より高いところへ登っていくのではなく、自分の姿を知らされて頭が下がっていく。
私は、そんな聞き方をしたいと思っています。
教えを握って、人を殴るのではない。
教えの前に、私自身も座る。
「あの人はどうだ」より先に、「私はどうだろう」と聞く。
教えを、凶器にしていないか。
この問いは、まず私自身に向けておきたいと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋


