世界は変わらなくても――仏法を聞くということ
世界そのものを思いどおりに変えるのではなく、その世界を見ている私の見方が問い直される。日常の実話から、仏法を聞くことを考える。

投資などで大きな財を築いた知人から、以前こんな話を聞いたことがあります。
「服はユニクロしか着ないんだ」
私はそれを聞いて、少し親近感を覚えました。
「なんだ、自分と同じユニクロなんだ」と。お金があっても、服にはあまりお金をかけない人なのだろう。そんなふうに受け取ったのです。
同じユニクロ、ではなかった
ところが、話を続けて聞いてみると、その知人は「一度着た服は洗わずに捨てる」というようなことを話しました。
これは本人から聞いた話ですが、どこまで本当なのかは分かりません。
ただ、その話を聞いた瞬間、私の中の「自分と同じユニクロ」という見え方は、すっかりひっくり返りました。
同じ「ユニクロ」という言葉を聞いていたのに、私が勝手に自分の暮らしへ引き寄せて、相手を分かったつもりになっていたのです。
変わったのは、何だったのか
その人が急に変わったわけではありません。服が変わったわけでもありません。
変わったのは、私の見方でした。
私たちは、目の前にあるものを、そのまま見ているつもりになります。
でも実際には、自分の経験、自分の常識、自分の都合を通して見ています。少し話を聞いただけで、「この人はこういう人だ」と決めてしまうこともあります。
仏法を聞けば、世界が思いどおりになるのか
仏法を聞けば、病気がなくなるわけではありません。別れがなくなるわけでもありません。気の合わない人が、急に気の合う人になるわけでもない。
世界を私の思いどおりに変える魔法ではありません。
けれども、教えを聞く中で、これまで当然だと思っていた自分の見方が問い直されることがあります。
「相手が悪い」と思っていたけれど、自分は本当に相手の話を聞いたのだろうか。
「これが当たり前」と思っていたけれど、本当にそうなのだろうか。
「分かっている」と思っていたけれど、私はどこまで分かっていたのだろうか。
見る私が、問い直される
世界を自分の思いどおりに変えるのではなく、その世界を見ている自分の見方が、問い直される。
仏法を聞くということには、そういうことがあるのだと思います。
世界は同じでも、その世界を見ている私が問い直される。そして、昨日までとは少し違う見方で、目の前の人や、自分自身に出遇い直していく。
私もまた、分からないことだらけの一人として、皆さんとご一緒に聞き続けてまいりたいと思います。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋

