僧という字――仏さまの教えを、食べられる言葉にする
「僧」という字をきっかけに、仏法を暮らしのことばにして手渡す僧侶の役目と、話す側もまた教えを聞く一人であることを考える。

今日は、少し漢字のお話から始めます。
「僧」という字は、人偏に「曽」と書きます。
もちろん、これは字源を説明する話ではありません。「曽」は音を表す部分だとされます。ここから先は、私が教えていただいた一つの味わい方として聞いてください。
甑という道具
「曽」の字を含む漢字に「甑(こしき)」があります。昔、米などを蒸すために使われた道具です。
硬い米をそのまま口へ入れるのではなく、蒸して、私たちがいただけるものにする。
そこから、「僧とは、仏さまの教えを、人が日々の暮らしの中でいただける言葉にして手渡す人なのではないか」と聞いたことがあります。
私は、この味わい方が心に残っています。
難しい言葉を、暮らしの言葉へ
お経には、普段の生活では使わない言葉がたくさん出てきます。
阿弥陀如来。本願。他力。信心。往生。
言葉だけを説明して終われば、意味は分かっても、自分の暮らしとはつながらないことがあります。
法話をする者の役目は、その教えを勝手に変えることではなく、今を生きている私たちの暮らしのところまで運んでくることなのだと思います。
食べやすくすることと、味を変えることは違う
ただし、ここで気をつけなければならないことがあります。
食べやすくすることと、自分の好きな味に変えてしまうことは、同じではありません。
聞きやすくしようとして、耳の痛いところを全部取り除く。安心してもらおうとして、教えを都合のよい慰めだけに変える。反対に、正しさを振りかざして、人を責めるための言葉にする。
どちらも、教えを私の都合に合わせてしまうことなのでしょう。
だから私は、「仏教ではこうです」と上から答えを渡すより、「私は今、この教えをこう聞かせてもらっています」とお話ししたいと思っています。
話す私も、いただく一人
法話をすると、私は前に座り、皆さんは聞く側になります。
でも、教えの外に私だけが立っているわけではありません。
話している私もまた、その教えを聞かせていただく一人です。むしろ、自分で口にした言葉によって、自分の姿を知らされることがあります。
僧侶が教えを料理して、皆さんだけに食べさせるのではない。差し出した私も、皆さんと一緒にいただく。
「僧」という一文字に、そんな願いを重ねて、これからも仏法を聞き、できるだけ暮らしの言葉でお話ししていきたいと思います。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋


