子どもの声は、迦陵頻伽の声
幼い頃に聞いた言葉を、子どもと生活する中であらためて受け取り直した実体験から。

私は幼い頃、「子どもの声は、迦陵頻伽の声」という言葉を聞いたことがあります。
そのときは、何のことか、よく分かりませんでした。言葉だけが残りました。
迦陵頻伽は、仏教の経典に説かれる鳥です。『仏説阿弥陀経』にも、極楽浄土で和雅の音を出し、仏法を説く鳥の一つとしてその名が出てきます。
でも、その意味を知ったからといって、「子どもの声は、迦陵頻伽の声」という言葉が分かったわけではありませんでした。
自分が親になって
それから年月がたち、自分が親になりました。子どもと生活するようになって、昔聞いたあの言葉が、少し違って聞こえるようになりました。
子どもの声は、いつも心地よい声ではありません。泣く。騒ぐ。何度言っても同じことをする。こちらが忙しいときに限って、「ねえねえ」と話しかけてくる。静かにしてほしいときに、大きな声を出す。
「迦陵頻伽のような美しい声ですね」などと、いつも穏やかに聞けるわけではありません。私も、「うるさいな」と思うことがあります。
だから、この言葉を、「子どもの声は何でもありがたがりなさい」という話にはしたくありません。
同じ声なのに
考えてみると、子どもの声は同じなのに、私の聞こえ方は、その時々でずいぶん違います。
時間に余裕があるときには、笑って聞ける。疲れているときには、腹が立つ。仕事に集中しているときには、邪魔だと思う。
つまり、変わっているのは、子どもの声だけではありません。聞いている私の方が、自分の都合によって変わっています。
そのことを、子どもの声によって知らされることがあります。
大人が教える側だと思っていた
大人は、子どもを教えます。静かにしようね。人の話を聞こうね。人に優しくしようね。ありがとうと言おうね。
でも、ふと自分を見ると、それをできていないことがあります。
子どもに、「人の話を聞きなさい」と言いながら、自分は子どもの話を途中で遮っている。「ありがとうと言いなさい」と言いながら、自分は家族がしてくれることを当たり前にしている。
教える側だと思っていた私が、子どもによって自分の姿を見せられる。そんなことがあります。
子どもが泣いても、いいんだよ
だから私は、お寺でも、子どもが声を出したというだけで、その子や保護者の方を、「迷惑な人」にしたくありません。
もちろん、周りの方への配慮は必要です。必要なら一度席を外す。落ち着いたら戻る。周りの大人も、少し待つ。席を譲る。困っていれば手を貸す。
排除するのではなく、どうすれば一緒にお参りできるかを考える。 その方がよいと思っています。
私たち大人も、最初から静かに座っていたわけではありません。泣いた。騒いだ。誰かを困らせた。そして、たくさんの人に待ってもらい、世話をしてもらい、ここまで大きくなりました。
そのことを、私たちは忘れがちです。
昔の言葉を、今また聞く
「子どもの声は、迦陵頻伽の声」。幼い頃には、分かりませんでした。今も、全部分かったとは思っていません。
ただ、子どもと生活する中で、以前とは違って聞こえるようになりました。
子どもの声がいつも美しい、ということではなく、その声によって、自分の都合や、自分のものの見方を知らされる。 今の私は、そんな言葉として聞かせていただいています。
そして、また何年かたてば、違って聞こえるのかもしれません。それでよいのだと思います。
同じ言葉を、何度も聞く。聞く私が変わるたびに、また聞き直す。あの言葉は、今も私の中で続いています。
淨泉寺 住職 釋延洋

