法事は、誰のために勤めるのでしょう
亡き人をご縁として、今を生きる私が仏法を聞く法事の意味を考える。

先代の住職は、よく、「葬式や墓は、生きている人のためのもんだ」と言っていました。
若い頃の私は、その言葉をどこまで分かっていたのか分かりません。葬式も、法事も、お墓も、亡くなった人のためにするものだと思っていたからです。
でも、自分が住職となり、法事を勤めるようになって、この言葉を少しずつ違って聞くようになりました。
法事は、亡くなった人のため?
「父の三回忌をします」「母の一周忌です」そう言います。
当然、亡くなった方を思って集まります。花を供える。手を合わせる。思い出を語る。その気持ちは、とても大切です。
ただ、真宗では、私たちがお経を読んだり、法事を勤めたりする力によって、亡くなった方を成仏させる、という考え方はしません。
亡き人をご縁として、今を生きている私たちが仏法を聞く。 そこに法事の大切な意味があります。
では、亡き人は関係ないのでしょうか
そう言うと、「では、法事は生きている人のためで、亡くなった人は関係ないのですか」と思うかもしれません。そう二つに分けてしまうのも、少し違うように思います。
その方が亡くなったから、私たちは今日ここに集まっています。その方がいたから、今の自分がいる。その方との出会いや別れがあったから、考えずに過ごしていたことを、考えさせられる。
つまり、亡き人が、今を生きている私に仏法を聞かせてくださる、大切なご縁になっているのです。
先代の言った、「生きている人のため」という言葉も、今の私には、そんなふうに聞こえます。
年忌は、悲しみの進み具合ではない
一周忌。三回忌。七回忌。年忌法要には、節目があります。
でも、一周忌になったから、悲しみがここまで進んでいなければならない。三回忌になったから、もう大丈夫でなければならない。ということではありません。
何年たっても、思い出せば涙が出ることがあります。反対に、笑いながら思い出を話せる日もあるでしょう。以前には思い出さなかったことが、何年もたってから突然浮かぶこともあります。「もっとこうしておけばよかった」という言葉が、後になって出てくることもある。
法事は、悲しみを終わらせる期限ではありません。その時の自分で、もう一度亡き人とのご縁に遇う時間です。
同じ法事でも、聞く私は同じではない
同じお経を読む。同じ南無阿弥陀仏を申す。前の法事と、あまり変わらないように見えます。
でも、聞いている私の方は変わっています。一周忌の私。三回忌の私。七回忌の私。その間に、自分も年を重ねています。家族も変わっています。
同じ言葉が、以前とは違って聞こえることがあります。だから、何度も法事を勤めることにも、意味があるのでしょう。
誰のため?
「法事は、誰のためにするのでしょう」と聞かれたら、私は今、単純に、「亡くなった人のためです」とも、「生きている人のためです」とも、言い切らないと思います。
亡き人をご縁として、生きている私が仏法を聞く。その私が、また亡き人とのご縁をいただき直す。そこには、どちらか一方に分けられないつながりがあります。
法事の日、立派な思い出話を用意する必要はありません。悲しみを整理してくる必要もありません。
その時の思いを、そのまま持ってお参りください。そして、亡き人をご縁として、また一緒に仏法を聞きたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋

