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真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

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法話 読む目安 約2分

花は、ほかの花にならなくていい

チューリップやひまわりの姿から、ほかの誰かになろうとするのではなく、この私を生きることと、その花を見る私の眼を考える。

春になると、いろいろな花が咲きます。

チューリップは、チューリップとして咲く。

ひまわりは、ひまわりとして咲く。

チューリップが、「どうして私は、ひまわりのように大きくなれないのだろう」と悩んでいるようには見えません。

ひまわりも、朝顔になろうとはしません。

人間は、ほかの花になろうとする

ところが私たちは、すぐに人と比べます。

あの人の方が仕事ができる。

あの人の方が豊かだ。

あの人の子どもの方がよくできる。

あの人のようになれたら。

自分ではない誰かになろうとして、苦しくなることがあります。

『世界に一つだけの花』という歌の題名を聞くと、一人ひとり違っていてよいということを思います。

頭では分かっているのに、私はまた比べています。

青い花には、青い光

『仏説阿弥陀経』には、極楽の蓮華について、青い花には青い光、黄色い花には黄色い光、赤い花には赤い光、白い花には白い光があると説かれます。

青い花に、「黄色く光りなさい」とは言われていません。

それぞれの色が、それぞれの光を放っています。

私は、この言葉を聞くと、ほかの誰かにならなくてもよいのだと簡単に安心する一方で、もう一つ問い返されます。

花を見る、私の眼

問題は、花の側だけではありません。

私は、目の前の人を、その人として見ているでしょうか。

できる、できない。

役に立つ、立たない。

自分の期待に応える、応えない。

そんな物差しによって、花を並べ替えるように人を見てはいないでしょうか。

「あなたはあなたでいい」という言葉を、私は人に言いながら、自分自身には「もっと別の人にならなければ」と言っていることもあります。

花を変えるためではない

仏法を聞くのは、チューリップをひまわりに変えるためではありません。

ほかの人を、自分の望む花へ作り変えるためでもありません。

花を見る、私の眼を問われるためです。

そして、誰か別の花になろうとして苦しんでいる、この私自身に気づかせていただくためです。

チューリップはチューリップとして。ひまわりはひまわりとして。

私は、私として。

そのいのちを、どんな眼で見ているのか。

花を見るたびに、また聞き直してみたいと思います。

この記事のテーマ
いのち比較阿弥陀経

淨泉寺 住職 釋延洋