魚は、どこから来たのだろう
乾いた土地にできた小さな水辺に、やがてアメンボやオタマジャクシ、魚まで現れたという家族の話から、「不思議」を考えます。

父方の祖母の兄弟に、大陸の乾いた土地で緑化に関わった人がいたと、家族から聞いています。
水を探し、やがて小さな水辺ができると、そこにアメンボが来て、オタマジャクシが現れ、しまいには魚まで見られるようになったという話でした。
「魚はどこから来たの?」
私はこの話を聞くたびに、「魚はいったい、どこから来たのだろう」と思います。もちろん、生物学的に説明できる経路があるのかもしれません。
でも、説明がつくことと、驚きがなくなることは同じではありません。水があるだけで、そこへいのちが集まり始める。その出来事自体が、私には不思議です。
不思議は、考えないことではない
仏教の「不思議」は、何も考えずに信じるという意味ではありません。人間の思いや計らいでは尽くせない、という響きを持つ言葉です。
分からないから考えないのではなく、考えてもなお尽くせないものがあると知る。そこに、驚きや敬いが生まれます。
「分からない」を、すぐに埋めなくてもいい。分からないまま、よく見る。そこから始まる聞法もあるのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋

