見えないものを、なぜ信じるのだろう
音や電波のように目に見えないものを手がかりに、「見えるものだけが本当なのか」を考える。

音は、目には見えません。けれども、音が存在しないとは思いません。
スマートフォンも、目に見えない電波によってつながっています。私たちは電波そのものを見たことがなくても、確かめる方法があることを知っています。
そんなことを考えていると、一つの疑問が浮かびます。
阿弥陀如来も浄土も見えない。では、見えないものを、なぜ信じるのだろう。
見えなくても、確かめることができる
ただし、音や電波と阿弥陀如来を同じものとして扱うことはできません。音や電波は、機器や実験によって測ることができます。
「電波も見えない。だから阿弥陀如来も存在する」という証明にはなりません。
むしろ私が考えたいのは、私たちはいつの間にか「自分に見えるもの、測れるものだけが本当だ」と決めてはいないだろうか、ということです。
阿弥陀如来は、何を見る目で見るのか
阿弥陀如来は、もっと性能のよい望遠鏡をつくれば、いつか宇宙のどこかに発見できる存在、という話ではありません。
真宗で阿弥陀如来を聞くとき、物理的な物体を探すように「どこにいるのか」を確かめるのとは、少し違うのでしょう。
むしろ、私が自分中心にしか世界を見ることのできない者であること。その私を捨てずに願い続けるはたらきがあることを、教えとして聞いていきます。
見えるものだけが、本当なのか
私たちの暮らしにも、見えないけれど大切なものがあります。
人の気持ち。信頼。約束。亡くなった人からいただいた言葉。
もちろん、それらと阿弥陀如来を同じだと言うのではありません。ただ、「見えない」という理由だけで、すべてを無いことにできるのだろうかとは思います。
浄土は、どこにあるのでしょう
「浄土は本当にあるのですか」と聞かれることがあります。
私自身、見てきたわけではありません。だから、見てきた人のように説明することもできません。
それでも、親鸞聖人が聞かれた教えを、私もまた聞いていく。分からないところを、分かったことにせずに聞き続ける。
見えないから、ではなく
見えないことだけで存在を否定できない一方、分からないというだけで存在を証明できるわけでもありません。
だから私は、「見えないものを無理に信じ込む」ことと、仏法を聞くことを同じにはしたくありません。
では、信じるとは、信じ込むことなのでしょうか。次は、そこを考えてみたいと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋


