文字サイズ
本文へ移動
真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

ホーム 読む・聞く

住職の話 読む目安 約2分

見えないものを、なぜ信じるのだろう

音や電波のように目に見えないものを手がかりに、「見えるものだけが本当なのか」を考える。

音は、目には見えません。けれども、音が存在しないとは思いません。

スマートフォンも、目に見えない電波によってつながっています。私たちは電波そのものを見たことがなくても、確かめる方法があることを知っています。

そんなことを考えていると、一つの疑問が浮かびます。

阿弥陀如来も浄土も見えない。では、見えないものを、なぜ信じるのだろう。

見えなくても、確かめることができる

ただし、音や電波と阿弥陀如来を同じものとして扱うことはできません。音や電波は、機器や実験によって測ることができます。

「電波も見えない。だから阿弥陀如来も存在する」という証明にはなりません。

むしろ私が考えたいのは、私たちはいつの間にか「自分に見えるもの、測れるものだけが本当だ」と決めてはいないだろうか、ということです。

阿弥陀如来は、何を見る目で見るのか

阿弥陀如来は、もっと性能のよい望遠鏡をつくれば、いつか宇宙のどこかに発見できる存在、という話ではありません。

真宗で阿弥陀如来を聞くとき、物理的な物体を探すように「どこにいるのか」を確かめるのとは、少し違うのでしょう。

むしろ、私が自分中心にしか世界を見ることのできない者であること。その私を捨てずに願い続けるはたらきがあることを、教えとして聞いていきます。

見えるものだけが、本当なのか

私たちの暮らしにも、見えないけれど大切なものがあります。

人の気持ち。信頼。約束。亡くなった人からいただいた言葉。

もちろん、それらと阿弥陀如来を同じだと言うのではありません。ただ、「見えない」という理由だけで、すべてを無いことにできるのだろうかとは思います。

浄土は、どこにあるのでしょう

「浄土は本当にあるのですか」と聞かれることがあります。

私自身、見てきたわけではありません。だから、見てきた人のように説明することもできません。

それでも、親鸞聖人が聞かれた教えを、私もまた聞いていく。分からないところを、分かったことにせずに聞き続ける。

見えないから、ではなく

見えないことだけで存在を否定できない一方、分からないというだけで存在を証明できるわけでもありません。

だから私は、「見えないものを無理に信じ込む」ことと、仏法を聞くことを同じにはしたくありません。

では、信じるとは、信じ込むことなのでしょうか。次は、そこを考えてみたいと思います。

この記事のテーマ
信心見えるもの阿弥陀如来

淨泉寺 住職 釋延洋