信じるとは、信じ込むことなのだろうか
信じることと、自分に言い聞かせて信じ込むことは同じなのか。真宗の「聞く」から考える。

「信じなければならない」と言われると、私は少し身構えます。
疑ってはいけない。迷ってはいけない。強く信じ込まなければならない。そういう意味に聞こえることがあるからです。
けれども、真宗でいう信心は、自分の力で心の中に確信をつくり上げることなのでしょうか。
自分でつくる信心なのか
『歎異抄』には、信心について「如来よりたまわりたる信心」と受け取られてきた言葉があります。
自分が頑張って疑いを消し、「よし、今日から完全に信じよう」とつくるものではない。
それなら、信じるために自分を追い込むより、まず聞くことが大切になるのでしょう。
分からないことを消さなくても
仏法を聞いていても、疑問は出てきます。
阿弥陀如来とは何なのか。浄土とは何なのか。どうして念仏なのか。
私自身、分からないことだらけです。
だからといって、その疑問を無理に押し込めて「信じています」と言うことが、信心なのだとは思えません。
分からないから聞く。聞いてもまた分からないことが出てくる。だからまた聞く。
何をよりどころにしているのか
人は何も信じずに生きているようで、実際にはいろいろなものをよりどころにしています。
お金。肩書き。自分の経験。世間の常識。自分の正しさ。
それらを信じているつもりさえないまま、そこに人生を預けていることがあります。
仏法を聞くことは、「あなたは何をよりどころとして生きているのか」と、自分の足もとを照らされることでもあるのでしょう。
先に願われていた
子どもと生活していると、子どもが親を信じるより先に、親の方がその子を案じ、願っているということがあります。
もちろん、人間の親子関係と阿弥陀如来をそのまま同じにはできません。
ただ、「私が先に仏さまを選び、つかみ取る」という向きだけではなく、私が気づくより先に願われていた、という向きがあることを教えられます。
私が仏さまをつかむのではない。つかもうとしているこの私の方が、すでに願われていた。
信じるとは、自分に言い聞かせて固めることではなく、その願いを聞かせていただく中で知らされてくることなのかもしれません。
淨泉寺 住職 釋延洋

