魚は、どこから来たのだろう――「不思議」ということ
大陸内部の乾燥した地域で、水を探した先に現れたいのち。人間の「分かった」では捉えきれない世界を考える。

父方の祖母は、福島県の白河の出身でした。祖母の兄弟にあたる大おじが、ずいぶん昔、大陸内部の乾燥した地域で緑化にかかわっていたことがあります。
水の乏しい土地で、まず水を探した。やがて小さな水場ができたそうです。
初めは、何もいなかった。ところがしばらくすると、アメンボのような虫が現れ、オタマジャクシも見えるようになった。そして、あるとき魚までいたというのです。
虫なら、どこかから飛んできたのかもしれない。カエルなら、何かの拍子にやって来たのかもしれない。けれども私は、「魚は、どこから来たのだろう」と不思議で仕方がありませんでした。
その話をしたとき、大おじが、こんな意味のことを言いました。
こういうことを、不思議というんだ。
人がしたことと、人にはできないこと
もちろん、人が何もしなかったわけではありません。水を探した人がいた。土地を整えた人がいた。緑化のために働いた人がいた。
人の努力は確かにありました。けれども、その人たちが「ここに魚を出現させよう」と魚まで計画したわけではありません。
自分たちがしたことの先に、自分たちのはからいを越えた出来事が起きている。私はその話を聞いて、「不思議」という言葉を少し違って聞くようになりました。
「原因が分からない」という意味だけではない
仏教には「不可思議」という言葉があります。これは、科学で説明できないものなら何でも仏教の不思議だ、という話ではありませんけど。
魚がどうやって現れたのかも、調べれば生物学的な経路が分かるかもしれません。卵が何かに付着して運ばれたのかもしれない。別の水系とつながっていたのかもしれない。
けれども、仕組みが説明できたら、世界のすべてを分かったことになるのでしょうか。
私たちは、原因を説明できると「分かった」と言います。その説明は大切です。でも、分かったという言葉の中に、世界そのものを全部収めてしまえるわけではありません。
「分かった」と言い切れないところに
一つのいのちが生まれる。人と人が出会う。自分が今日ここにいる。
そこには、説明できることがたくさんあります。同時に、その説明だけでは受け取りきれないものも残ります。
「不思議」という言葉は、分からないから考えるのをやめる言葉ではなく、自分の「分かった」を絶対にしないための言葉でもあるのかもしれません。
魚は、どこから来たのだろう。
私は今も答えを知りません。ただ、あの話を思い出すたびに、人のはからいの外にも世界は広がっていることを聞かせていただきます。
淨泉寺 住職 釋延洋

