ぶたさん、ごめんね――「いただきます」の前で立ち止まる
園の昼食で子どもがこぼした「ぶたさん、ごめんね」という一言から、食べることと「いただきます」を考えます。

園の昼食のときのことです。お肉を見た子が、「これ、ぶたさん?」と尋ねました。先生が「そうだよ」と答えると、その子は少し黙ってから、「ぶたさん、ごめんね」と言いました。そして、いつものように食べ始めました。
私はその言葉を聞いて、少し立ち止まりました。大人の私は「いただきます」を毎日の挨拶として口にします。けれど、その子は目の前の食事の向こう側に、さっきまで生きていたいのちを見ていたのでしょう。
食べなければ生きていけない
私たちは、何も傷つけずに生きることはできません。野菜も魚も肉も、誰かが育て、運び、調理してくれたものです。食べるということは、きれいなことだけではありません。
だからといって、食事のたびに罪悪感で苦しくなることが大切なのでもありません。見えなくなっていたものに、ふと気づかされる。その気づきの中で食べる。そこに「いただきます」という言葉の重さがあるように思います。
世界ではなく、見る目が変わる
その日から食卓が別のものになったわけではありません。けれど、私の見え方は少し変わりました。仏法を聞くということも、世界を思い通りに変えることではなく、世界を見ている私の眼が問い直されることなのかもしれません。
子どもの何気ない一言が、大人の私に教えてくれることがあります。教える側にいるつもりの私が、実は何度も教えられているのです。
今日の「いただきます」が、昨日と同じ言葉でありながら、少し違って聞こえてくる。そんなところから、仏法を聞く生活は始まるのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋