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真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

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日々の暮らしから考える 読む目安 約2分

ぶたさん、ごめんね――「いただきます」の前で立ち止まる

園の昼食で子どもがこぼした「ぶたさん、ごめんね」という一言から、食べることと「いただきます」を考えます。

大人の指を握る小さな手(家族のイメージ写真)
イメージ写真

園の昼食のときのことです。お肉を見た子が、「これ、ぶたさん?」と尋ねました。先生が「そうだよ」と答えると、その子は少し黙ってから、「ぶたさん、ごめんね」と言いました。そして、いつものように食べ始めました。

私はその言葉を聞いて、少し立ち止まりました。大人の私は「いただきます」を毎日の挨拶として口にします。けれど、その子は目の前の食事の向こう側に、さっきまで生きていたいのちを見ていたのでしょう。

食べなければ生きていけない

私たちは、何も傷つけずに生きることはできません。野菜も魚も肉も、誰かが育て、運び、調理してくれたものです。食べるということは、きれいなことだけではありません。

だからといって、食事のたびに罪悪感で苦しくなることが大切なのでもありません。見えなくなっていたものに、ふと気づかされる。その気づきの中で食べる。そこに「いただきます」という言葉の重さがあるように思います。

世界ではなく、見る目が変わる

その日から食卓が別のものになったわけではありません。けれど、私の見え方は少し変わりました。仏法を聞くということも、世界を思い通りに変えることではなく、世界を見ている私の眼が問い直されることなのかもしれません。

子どもの何気ない一言が、大人の私に教えてくれることがあります。教える側にいるつもりの私が、実は何度も教えられているのです。

今日の「いただきます」が、昨日と同じ言葉でありながら、少し違って聞こえてくる。そんなところから、仏法を聞く生活は始まるのだと思います。

この記事のテーマ
いただきますいのち子ども

淨泉寺 住職 釋延洋