「ごめんね」と言える食卓
子どもの「ぶたさん、ごめんね」という言葉は、正しい答えではなく、いのちを前にした素直な戸惑いでした。

「ぶたさん、ごめんね」。園の昼食で聞いたその言葉を、私は今でも覚えています。
その子は、食べることを拒んだわけではありません。大人に正解を言おうとしたのでもありません。ただ、目の前の食べ物が「いのちだった」と知った瞬間に、自然に出た言葉だったのでしょう。
答えより、戸惑いを大切にする
私たちは、子どもから質問されると、すぐにきれいな答えを返したくなります。「命を大切にしよう」「残さず食べよう」。どれも間違いではありません。
でも、答えを急ぐことで、その子が感じた戸惑いを消してしまうこともあります。仏法には、すぐに片づけられない問いがあります。生きること、死ぬこと、別れること。分かったことにしてしまわず、問いの前に立つ時間も大切です。
私も同じ場所に立っている
住職だから答えを持っているわけではありません。私もまた、食べなければ生きられず、誰かを傷つけ、忘れ、都合よく考えます。
だからお寺は、答えを配る場所というより、一緒に問いに立ち返る場所でありたいと思っています。
「ごめんね」と言える心を、正解に変えてしまわず、そのまま聞かせてもらう。そこから始まる法話もあるのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋