「ぶたさん、ごめんね」――いただきますの前で
園の昼食での実話から、「いただきます」と、いのちをいただいて生きることを考える。

――いただきますの前で
幼稚園で、子どもたちと一緒に昼食を食べていたときのことです。
その日の献立には、豚汁がありました。
一人の女の子が、ふと、「ぶたさん、ごめんね」と言いました。
私は、その一言に立ち止まらされました。
目の前にあるのは、いつもの豚汁です。その前と後で、料理が変わったわけではありません。
でも、その言葉を聞いた途端、私の見え方が変わりました。
それまで私は、「おいしい」「まずい」「今日は何が入っている」そんなふうに、食べる自分の側から食事を見ていました。
けれども、「ぶたさん」という一言によって、食べ物になる前に、そこにいのちがあったことを思い出させてもらいました。
「いただきます」
私たちは、ほかのいのちをいただかなければ生きていけません。
豚も。魚も。野菜も。米も。
何かのいのちをいただいて、自分のいのちをつないでいます。
普段は知っているはずのことです。でも、知っていることと、そのことが自分自身に聞こえてくることとは、同じではありません。
「いただきます」と毎日言っています。でも、私は本当に、何を「いただきます」と言っていたのだろう。
子どもの一言によって、そんなことを考えさせられました。
「ありがとう」だけでよいのだろうか
こういう話をすると、「食べ物に感謝しましょう」「残さず食べましょう」とまとめることができます。もちろん、それも大切です。
でも私は、それだけでは少し足りないように思います。
「ありがとう」と言えば、いただいたいのちを返せるわけではありません。「ごめんね」と言えば、何もなかったことになるわけでもありません。
私は、ほかのいのちをいただいて生きている。その事実そのものは変わりません。
だから、感謝して終わるのではなく、少し申し訳なさも残る。その両方があってよいのではないかと思います。
ただし、生きていることに罪悪感を持ちなさい、という話でもありません。
私たちは、食べなければ生きられません。その私が、自分だけで生きているような顔をせず、たくさんのいのちによって、今日も生かされていることを忘れない。そのくらいのことなのでしょう。
教えているつもりだった
私は幼稚園で、子どもたちに、「いただきますをしましょう」「食べ物を大切にしましょう」と話す側です。つまり、教える側にいるつもりでした。
でも、あの日、教えられたのは私の方でした。
「ぶたさん、ごめんね」という子どもの言葉が、食事を当たり前にしていた私を、立ち止まらせました。
子どもに教えているつもりで、自分が教えられる。そういうことがあります。
世界ではなく、見る側が変わる
あの日、世界が変わったわけではありません。豚汁は、同じ豚汁です。
でも、その豚汁を見る私の側が、少し変わりました。
仏法を聞くということも、こういうことがあるのではないでしょうか。
それまでと同じ世界。同じ家族。同じ仕事。同じ食事。
でも、自分の見方が少し変わることで、今まで見えていなかったものが見えてくる。
そして、しばらくすると、また忘れます。私も、毎回の食事で深くいのちを考えているわけではありません。また、「今日は何を食べよう」「これはおいしい」と、自分の都合へ戻っていきます。
だからこそ、また聞くのでしょう。
「いただきます」という、何度も口にしてきた言葉を、もう一度聞く。
「ぶたさん、ごめんね」。あの日の声は、今も私に「いただきます」の意味を聞かせています。
淨泉寺 住職 釋延洋
