「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
自分の物差しを絶対にせず、なお善いことを求めて生きることを考える。

――私は、本当に「正しい側」にいるのだろうか
『歎異抄』の後序には、親鸞聖人の言葉として、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」と伝えられています。
初めて読むと、少し驚きます。善と悪が分からない。親鸞聖人が、そんなことを言ってよいのでしょうか。善悪なんてない。何をしてもよい。そういう意味なのでしょうか。
もちろん、そういうことではありません。
悪いことは、悪いと言わなければならない
人を傷つけること。暴力。差別。だますこと。社会には、止めなければならない行為があります。善悪を考えなくてよい、という話ではありません。
では、親鸞聖人は何を言われているのでしょう。
『歎異抄』では続いて、如来が善とされることを知り尽くして初めて本当の善が分かり、如来が悪とされることを知り尽くして初めて本当の悪が分かるのだ、という趣旨が語られます。
つまり、私たち人間が、自分の限られた物差しによって、「自分は完全に善を知っている」「私は正しい側にいる」と言い切ることへの問いなのでしょう。
人の悪いところは、よく見える
人の欠点は、よく見えます。「あの人は自分勝手だ」「常識がない」「思いやりがない」「間違っている」そう言うとき、私は、自分を「正しい側」に置いています。
相手が悪い。私は正しい。そう決まれば、話は簡単です。
ところが、少し時間がたってから、自分にも問題があったと気づかせていただくことがあります。相手の話を聞いていなかった。言い方がきつかった。自分の都合を、常識だと思い込んでいた。自分も同じことをしていた。
人のことはよく見えるのに、自分のことになると、途端に見えにくくなります。
正しいことは、怖いこともある
「自分は正しい」と思っているとき、人は強くなれます。私は間違っていないのだから、何を言ってもよい。相手が悪いのだから、傷つけても仕方がない。そんなところまで行くことがあります。
もちろん、正しいことを言う必要がある場面はあります。不正を、曖昧にしてはいけません。
でも、正しいことを言っている自分が、正しい人間であるとは限らない。 ここは、忘れたくないと思います。正しい言葉を使って、人を打ちのめすこともできるからです。
「私は悪人です」で終わるのでもない
逆に、「どうせ人間はみんな悪いのだから」と開き直ることも違うでしょう。
「煩悩具足の凡夫だから仕方がない」と、自分の行いへの責任を放棄するために仏教の言葉を使うなら、それもまた、自分を守るための使い方になってしまいます。
悪いことをしたら、謝る。傷つけたら、できる限り償う。間違っていたら、直す。それは必要です。
そのうえで、「私は善人の側、あの人は悪人の側」と、人間そのものを簡単に二つへ分けない。そこが大切なのだと思います。
子どもに「正しいこと」を教えるとき
子どもと接していると、大人は、正しいことを教えます。みんなと仲良くしましょう。人に優しくしましょう。嘘をついてはいけません。どれも大切なことです。
でも、正しい言葉だからこそ、人を追い詰めることがあります。
以前、「みんなと仲良くしなさい」と言われた子どもが、友だちと仲良くできなかったことで、「私は悪い子なんだ」と泣いていたことがありました。
「みんな仲良く」は、願いとしては大切です。でも、現実には、気の合わない人もいる。好きになれない人もいる。そこを無視して、正しい言葉だけを押しつければ、その言葉によって苦しむ人も出てきます。
正しさは、いつでも簡単ではありません。
如来の物差しと、私の物差し
親鸞聖人の、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」という言葉は、善悪の区別を捨てなさい、ということではなく、自分の物差しを、如来の物差しと同じだと思うなという言葉として、私は聞いています。
私は、自分に都合のよいことを「善い」と思うことがあります。自分に不都合な人を「悪い人」と思うことがあります。世間の多数派の考えを、そのまま正しさだと思うこともある。
その私の判断は、本当に絶対なのだろうか。仏法は、そこを問い返します。
人を裁いている、この私
この言葉を、「あの人は善悪が分かっていない」と他人へ向けた瞬間、また私は教えの外へ出ています。
聞かなければならないのは、まず、この私です。人を評価している私。自分を正しい側へ置いている私。自分の間違いには理由をつけ、人の間違いには厳しい私。
その姿を、教えによって知らされていく。
だから、「私はもう善悪を知りません」という結論になるのではありません。むしろ、自分の判断を絶対にしないまま、なお善いことを求めて生きる。
その難しい歩みを、仏法に聞き続けるのではないでしょうか。
私は、簡単に人を善い人、悪い人と決めてしまいます。だからこそ、この言葉を、何度も聞かなければならないと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋
