「親鸞一人がため」――大勢の中の、この私
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」。教えを一般論で終わらせず、「この私」の問題として聞く言葉です。

『歎異抄』には、親鸞聖人が阿弥陀如来の本願を「ひとえに親鸞一人がためなりけり」と味わわれた言葉が伝えられています。
大勢の人を救う教えなのに、「一人がため」と言う。ここに、仏法を一般論にしない厳しさがあります。
人の話にしてしまう
法話を聞きながら、「これはあの人に聞かせたい」と思うことがあります。家族、同僚、近所の人。人の顔はいくらでも浮かびます。
けれど、その瞬間、私は教えの外側に立っています。教えを必要としているのは相手で、自分はすでに分かっている側になっているからです。
この私のために聞く
「一人がため」という言葉は、世界に私しかいないという意味ではありません。誰かを除外する言葉でもありません。
広大な本願を、「みんなの話」で終わらせず、この私のところで聞く。そこに、仏法が自分事になる入口があります。
今日聞いた言葉は、誰のためだったのか。人の顔が浮かんだときほど、「まず私に聞かせていただく」と戻りたいと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋