「親鸞一人がため」――教えの外に、自分を置いていないか
教えを他人に当てはめるのではなく、この私に向けられた願いとして聞く。

――教えの外に、自分を置いていないか
『歎異抄』の後序には、親鸞聖人が常に仰せになっていた言葉として、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と伝えられています。
私は、この「親鸞一人がため」という言葉に、何度も立ち止まらされます。
阿弥陀如来の本願は、親鸞聖人一人だけを特別扱いするためにある、という意味ではないのでしょう。むしろ、教えを「世の中の人たちへの話」にしてしまわない。この私に向けられた願いとして聞く。 そこに大切なことがあるように思います。
「あの人に聞かせたい」
法話を聞いていると、時々、「あの人に聞かせたいな」と思うことがあります。夫に聞かせたい。妻に聞かせたい。子どもに聞かせたい。職場のあの人に聞かせたい。
「あの人は本当に人の話を聞かないから、この話を聞けばいいのに」そんなふうに思います。私にもあります。
でも、そう思った瞬間、教えを聞かなければならない本人が、一人だけ教えの外へ出ています。私です。
仏法を、人を正す道具にしてしまう
「人の話を聞きましょう」という法話を聞いて、「あの人は聞かない」と思う。「欲にとらわれています」と聞いて、「あの人は欲深い」と思う。「自分の正しさに執着しています」と聞いて、「まさに、あの人のことだ」と思う。
教えを聞いているはずなのに、その教えを使って、ますます人を裁いている。そんなことがあります。
仏法を、自分が人より正しくなるための道具にしてしまう。これは、とても怖いことだと思います。
「親鸞一人がため」
親鸞聖人は、阿弥陀如来の本願を、まず自分自身へ向けられたものとして受け取られた。
『歎異抄』には、その言葉に続いて、多くの業を抱えた自分を助けようと願われた本願のありがたさが述べられています。
つまり、「私は人より立派だから、本願をいただいた」のではありません。むしろ、自分自身が、如来の願いなしにはどうにもならない存在である。そのことを、自分の身に引き受けておられる。
だから、「親鸞一人がため」という言葉は、私にも、「まず自分に聞きなさい」と呼びかけてくるように思います。
「あなたが悪い」より先に
人と意見がぶつかったとき、相手の間違いはよく見えます。「あの人が変われば、すべてうまくいく」と思う。
もちろん、相手に問題があることもあります。明らかな暴力や不正を、「自分の受け止め方の問題です」と済ませてよいわけではありません。変えるべきことは、変えなければならない。距離を置かなければならないこともあります。
それでも、仏法は、「相手だけを問題にしている私自身はどうなのか」という問いを残します。
私は、相手の言葉を本当に聞いたのか。最初から答えを決めていなかったか。自分の正しさによって、相手を一人の人として見ることをやめていなかったか。
そこまで見なければ、教えを聞いたことにはならないのでしょう。
住職だから、教えの外にいるわけではない
これは、住職である私自身にとっても大切なことです。法話をすると、どうしても、「皆さんにお伝えする」という形になります。
話す側。聞く側。教える側。教えられる側。そう分かれます。
でも、法話の言葉が向けられているのは、聞いてくださっている方だけではありません。話している私も、その中にいます。むしろ、人に話している言葉を、自分が一番聞かなければならないことがあります。
「親鸞一人がため」。この言葉は、住職という立場によって、自分を教えの外へ置きそうになる私を、何度も中へ戻してくれます。
この私のために
阿弥陀如来の願いを、世界中の人を救う壮大な話としてだけ聞けば、どこか遠い話になります。
でも、その願いが、今、腹を立てているこの私。人を裁いているこの私。分かっているつもりになっているこの私。そんな私に向けられていると聞けば、話は変わってきます。
仏法を聞くとは、世の中を評価するための知識を増やすことではなく、この私が、教えの中へ引き戻され続けることなのかもしれません。
「親鸞一人がため」。私は、その「一人」のところに、まず自分自身を置いて、これからも聞いていきたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋
