世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ
「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という願いを、今ここにいる自分自身から聞く。

親鸞聖人のお手紙に、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」という言葉があります。
私は、この言葉が好きです。
「世のなか安穏なれ」。世の中が、穏やかであってほしい。戦争や争いがなく、人が安心して暮らせる世の中であってほしい。そう願う。とても素直な言葉に聞こえます。
でも、その後には、「仏法ひろまれ」と続きます。この二つが一緒にあるところに、大切なことがあるように思います。
自分だけ助かればよいのか
宗教というと、自分自身が救われること、自分が安心を得ること、自分の死後がどうなるか、という個人的な問題のように考えられることがあります。
もちろん、自分自身がどう生きるのかは大切です。
親鸞聖人のお手紙でも、まず自分自身の往生を大切にせよと述べたうえで、仏恩を思うなら念仏を申し、「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と願うよう勧められています。
つまり、自分一人だけが安心できればよい、というところでは終わらないのでしょう。仏法を聞くことは、世の中と無関係ではありません。
「世の中が悪い」と言っているだけでは
「世のなか安穏なれ」と願うとき、私はつい、世の中の問題を思い浮かべます。争い。犯罪。差別。災害。貧困。人間関係の分断。「もっと世の中がよくなればいい」と思います。
もちろん、変えなければならない社会の問題があります。声を上げなければならないこともあります。
でも、仏法を聞く者として、もう一つ忘れたくないことがあります。その「世の中」をつくっている人間の一人に、私自身もいるということです。
世の中が穏やかであってほしい。では、私は、目の前の人に穏やかに接しているだろうか。争いがなくなってほしい。では、自分と違う人を、すぐ敵のように見ていないだろうか。人には優しくしてほしい。では、自分はどうなのか。
世界の平和を願いながら、家の中では腹を立てている。そんな私がいます。
安穏とは、何も起こらないことだろうか
「安穏」というと、何の問題も起こらない、穏やかで平和な状態を思い浮かべます。もちろん、戦争も災害もない方がよい。病気も苦しみも少ない方がよい。
でも、私たちの人生から、思いどおりにならないことを全部なくすことはできません。病気になる。老いる。人と別れる。自分の考えと違う人に出会う。
では、安穏とは、何も起こらない人生のことだけなのでしょうか。思いどおりにならない現実の中で、何をよりどころとして生きるのか。そこにも、「安穏」という言葉を聞く余地があるように思います。
「仏法ひろまれ」
「仏法が広まる」というと、仏教徒の人数を増やすことのようにも聞こえます。寺へ来る人を増やす。門徒を増やす。それだけなら、宗教団体を大きくする話になってしまいます。
でも、親鸞聖人が、自分自身が聞いてきた本願の教えを、多くの人に聞かれてほしいと願われたのは、その教えによって、人間の生き方が問い直されるからなのでしょう。
自分だけが正しいと思う。人を善悪で決めつける。自分の欲望を中心に世界を見る。その私が、仏法によって照らされる。
もし、一人ひとりが、自分の正しさだけに閉じこもらず、少しでも自分自身を問い直すことができたなら。世の中のあり方も、少し変わるかもしれません。
まず、身近なところから
「世のなか安穏なれ」という言葉は、とても大きな願いです。私一人で、世界を平和にすることはできません。
でも、目の前の人に、少し譲ることはできるかもしれない。困っている人に、少し手を差し伸べることはできる。子どもが泣いたとき、「迷惑だから出て行って」だけではなく、「どうしたら一緒にいられるだろう」と考えることもできる。
家族に、「ありがとう」を言うこともできる。自分が間違っていたら、「ごめんなさい」と言うこともできるかもしれない。
そういう小さなところと、「世のなか安穏なれ」という大きな願いは、別々ではないのだと思います。
寺を残す理由
「仏法ひろまれ」という言葉を聞くと、なぜ寺を次へ残したいのか、という自分自身の問いにもつながります。
建物を残したいからだけではありません。寺の名前を残したいからだけでもない。
この場所で、誰かが仏法を聞く。自分の当たり前を問い直す。亡き人をご縁として、自分の生をたずねる。違う人と、どうすればともに生きられるかを考える。
そういう場所が、次の時代にもあってほしい。それも、私にとっての、「仏法ひろまれ」という願いなのかもしれません。
世のなか安穏なれ。仏法ひろまれ。
大きすぎる願いだからこそ、まず、今ここにいる自分自身から、聞いていきたいと思っています。
淨泉寺 住職 釋延洋

