子どもが泣いても、いいんだよ
子どもを排除するのではなく、どうすれば一緒にお参りできるかを考える。

法要に、小さな子どもを連れてきてくださることがあります。
途中で泣くことがあります。声を出すこともあります。歩き回りたくなることもあります。
すると、お父さんやお母さんが、とても申し訳なさそうな顔をされます。「すみません」「ご迷惑をおかけして」そう言って、慌てて本堂の外へ出て行かれることがあります。
もちろん、ほかの方がお参りしている場ですから、何の配慮もいらない、ということではありません。
でも、私は、子どもが声を出したというだけで、その親子が、「ここにいてはいけない人」になってしまうのは、少し違うと思っています。
私たちも、子どもだった
当たり前のことなのですが、私たち大人も、昔は子どもでした。
泣いた。騒いだ。言うことを聞かなかった。誰かの予定を狂わせた。食事をこぼした。夜中に起きた。病気になった。
そして、たくさんの人に、待ってもらった。世話をしてもらった。迷惑もかけた。
それなのに、大人になると、そのことを忘れてしまうことがあります。
今、静かに座っている側から、泣いている子どもを見る。すると、「うるさい」「迷惑だ」と思う。
でも、自分もかつて、誰かに待ってもらった側だったのです。
「迷惑をかけない人」になれるのだろうか
私たちは、子どもに、「人に迷惑をかけないようにしなさい」と教えます。大切なことです。好き勝手をしてよい、ということではありません。
でも、人は本当に、誰にも迷惑をかけずに生きられるのでしょうか。
病気になる。年を取る。仕事で失敗する。誰かに助けてもらう。いつか、一人ではできないことが増えていきます。
私自身も、これまでたくさんの人に支えられて生きています。
それなら、目指すのは、「誰にも迷惑をかけない人」だけではなく、迷惑をかけたり、かけられたりしながら、それでも一緒に生きていける人なのではないかと思います。
排除するか、一緒に考えるか
子どもが泣いた。そのとき、「静かにできないなら外へ出てください」という方法があります。場合によっては、一度外へ出た方が、子ども自身も楽になることがあります。
でも、それだけではないはずです。
少し待つ。出口に近い席を用意する。途中で出入りしてもよいことにする。誰かがドアを開ける。荷物を持つ。困っている親に声をかける。
どうすれば、一緒にここにいられるだろう。
そう考えることもできます。大きなことではありません。ほんの少し、それぞれが譲ればよい。
「迷惑な人」をつくらない
これは、子どもだけの問題ではないように思います。
足の悪い人。耳の聞こえにくい人。認知症のある人。じっと座っていることが難しい人。赤ちゃんを連れた人。私たちの社会には、いろいろな人がいます。
自分にとって都合が悪い人を、すぐに、「迷惑な人」として外へ出してしまえば、確かに自分の周りは整うかもしれません。
でも、その社会は、いつか自分が弱ったときに、自分自身をも排除する社会になるかもしれません。
手を貸す方が、自分も穏やかになる
困っている人を見ると、「なんとかしてよ」と腹を立てることがあります。
でも、「大丈夫ですか」と一言声をかけてみる。荷物を少し持つ。道をあける。子どもが落ち着くまで少し待つ。
そうすると、不思議なことに、自分の心も、先ほどまでより穏やかになっていることがあります。
相手のためにしたつもりが、自分の方も楽になっている。私は、そういう経験があります。
全部を、「迷惑か、迷惑でないか」という物差しだけで見ていると、自分自身も、ずっとイライラし続けなければならなくなります。
子どもの声が聞かせてくれること
私は幼い頃、「子どもの声は、迦陵頻伽の声」という言葉を聞きました。その話は、別の記事にも書きました。
今の私は、子どもの声をいつでも美しい声として聞けるわけではありません。「うるさいな」と思うこともあります。
だからこそ、その声によって、自分の都合だけで世界を見ていないかと知らされることがあります。
子どもの声そのものを美化するのではなく、その声を聞いている、こちら側が問われる。私は、そんなふうに受け取っています。
お寺も、一緒に考える場所に
淨泉寺では、赤ちゃんや子どもを連れてお参りいただいて構いません。
泣くことがあります。途中で出ることもあります。また戻ってきてもよい。全部の時間、静かに座っていられなくても構いません。
もちろん、周りの方への配慮も、一緒に考えます。
大切なのは、「迷惑だから来ないでください」で終わらせないことです。
どうすれば、一緒にお参りできるか。 それを、お寺側も、ご家族も、周りの人も、一緒に考えていきたいと思っています。
子どもも、お参りする一人です。
そして、その子どもを見ている私たち大人もまた、仏法を聞かせていただく一人なのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋
