当たり前が、ひっくり返る――「有り難い」ということ
右手の違和感をきっかけに、身体が動くことを当たり前にしていた自分を見直した経験。

ある夏のことです。右手が、妙に冷たく感じるようになりました。
最初は、「暑いから、冷たくてちょうどいいな」くらいに思っていました。
私は普段、あまり病院へ行く方ではありません。それでも気になって受診し、検査を受けると、首のあたりで神経の通り道が狭くなっていることが分かりました。
子どもを背負うのも、トレーニングのつもりだった
双子が小さいころ、よく肩車をしたり、背負ったりしていました。
毎日少しずつ体重が増えるのだから、そのまま持ち続ければ、いずれ何十キロになっても持ち上げられる。半分冗談で、そんなことを考えていました。
ところが、子どもより先に私の身体の方が「もう無理だ」と言ったようなものでした。
動くことを、当たり前にしていた
手が動く。物を持てる。歩ける。食べられる。眠れる。
調子のよいときには、そんなことをいちいち喜びません。できて当然だと思っています。
でも、少し調子を崩しただけで、それまで当然だと思っていたことが、実はそうではなかったと気づかせていただきます。
「有り難い」
「ありがたい」は、「有ることが難い」と書きます。
だからといって、「病気になってよかった」「不調に感謝しなさい」と言いたいわけではありません。苦しいものは苦しい。病気はない方がよい。
ただ、失ってから初めて大切さを知るだけではなく、まだあるうちに、その有り難さを聞くことはできないだろうかと思います。
私の身体なのに
「自分の身体」と言います。けれども、私の思いどおりにはなりません。
年を取る。病気になる。疲れる。痛む。
私のものだと思っている身体さえ、完全には支配できない。
だからこそ、能力や健康だけで人の価値を測ることもできないのでしょう。
仏法は、何かを失ってからだけ聞くものではありません。今あるものを当たり前にしている、その私の見方を、今ここでひっくり返してくれることがあります。
淨泉寺 住職 釋延洋

