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真宗大谷派(東本願寺) 電話 0283-24-1355
青龍山 大德院淨泉寺

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日々の暮らしから考える 読む目安 約5分

明日できることは、明日やればいい

「明日できることは、明日やればいい」の意味を、今日と明日の両方から聞き直す。

スペイン料理屋で聞いた言葉

大学生のころ、スペイン料理店でアルバイトをしていました。そこにスペイン人がいました。スペインの人がみんなそうなのか、その人が特別テキトウだったのか、今となっては分かりません。でも、その人はよく、こんなことを言っていました。「明日できることは、明日やればいい。」さらに、「明後日できることは、明後日やればいい。」そんな調子でした。私は子どものころから、「今日できることは、今日のうちにやりなさい」と教わってきました。宿題も、仕事も、できることを後回しにしない。それがちゃんとした人間のすることだと思っていました。ですから、「明日できるなら、明日でいいじゃないか」という言葉を初めて聞いたときには、ずいぶん驚きました。そんな考え方があるのか、と。自分の中の常識が、少しひっくり返ったような気がしました。

しばらくすると、私もその言葉を思い出すようになりました。もちろん、仕事には約束があります。やるべきことを何でも翌日に回してしまったら、困る人もいるでしょう。その人の言葉を、ただ「怠けてもよい」と受け取ったわけではありません。

ただ、今日しなければならないと自分で決めつけて、必要以上に追い立てられていた私にとっては、肩の力が少し抜ける言葉だったのです。

明日でよいこと、今日すべきこと

私たちは予定を詰め込むのが上手です。仕事が終わったら次の準備、次の行事が終わったらその次。手帳を見ると、来週どころか来年の予定まで書き込まれています。

先のことを考えて備えるのは大切です。家族や仕事を守るために、約束を守るのも大切です。でも、その予定の中に、今日しかできないことはどれほど入っているでしょうか。逆に、明日でもよいことを、今日でなければと抱え込んでいないでしょうか。

以前の私は「先に終わらせること」がよいことだと、あまりに簡単に考えていたように思います。目の前の人の話を途中で切り上げてでも、一つでも仕事を片付けたほうが立派なのだろうか。何かが違う気がしてきたのです。

明日があると思っている私

ところが、年を重ねるうちに、同じ言葉が別の響きを持つようになりました。「明日できることは、明日やればいい」。では、私に明日があることは、もう決まっているのでしょうか。

親鸞聖人が幼いときに詠んだと伝承せられる歌に、「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というものがあります。明日には咲いていると思った桜も、夜中の嵐で散ってしまうかもしれない。そういう無常の教えとして、昔から大切にされてきた歌です。

私はカレンダーに先の予定を入れます。明日どころか、来年のことも、そのまた先のことも書きます。でも、予定が書いてあることと、そこに私が生きて立っていることとは、同じではありません。

死の話をして、何もかも今日やってしまおうと言いたいわけではありません。それでは先ほどの話と同じく、また自分を追い詰めるだけでしょう。

いつか、では遅いこと

明日でもできる家事や仕事は、明日でよいかもしれません。けれど、今日しか伝えられない言葉があります。今、隣にいる人へ「ありがとう」と伝えること。「さっきは言いすぎた」と謝ること。元気な顔を見に行くこと。

もちろん、気持ちを伝えることは、いつでも簡単ではありません。気恥ずかしかったり、意地を張ったりします。私も、また今度と思うことがあります。「今度会ったときでいいだろう」と思っているうちに、その今度が来なくなることもあります。

誰も、別れを前にしてすべてを言い尽くせるわけではありません。言えなかった言葉が残ることもあります。だから「言い残した人は悪い」と責める話でもありません。ただ、私が当たり前に持っていると思い込んでいる「また今度」という時間を、考えてみたいのです。

「今を大切に」だけでは片づかない

では、一日一日を一生懸命生きればよいのでしょうか。そう言われると、今度は一日も無駄にしてはいけない気がしてきます。今日を大切にできなかった私は、失敗した人間なのだろうか。

私は、そんなふうには思えません。疲れて何もできない日もあります。立ち止まる日も、眠ってしまう日もあります。「大切に生きなさい」という言葉さえ、時には人を苦しくすることがあります。

仏さまの教えを聞くとは、毎日を完璧に使い切る方法を教わることではありません。明日があると思い込んでいる私、いま隣にあるものを見失っている私、その姿を見つめさせられることではないでしょうか。

また明日、と言えること

「明日できることは、明日やればいい」。この言葉を聞いた若い日の私は、肩の力を抜くことを教わりました。いまの私は、その言葉を聞きながら、明日が必ずあるわけではないとも思います。二つは矛盾しているようで、どちらも私に必要な問いなのかもしれません。

目の前の人に向き合うために、急がなくてもよいことを明日に送る。明日が分からないからこそ、今日聞くべき声には耳を傾ける。それがどこまでできるか、私にも分かりません。

それでも、何度も忘れる私が、何度も教えを聞かせていただきます。今日という一日を、自分で手に入れたもののように思わず、いただいた時間として生きていきたいと思います。

南無阿弥陀仏。

淨泉寺 住職 釋延洋