精進努力と自分を律する心
「精進努力」を他者への号令ではなく自己に向けられた言葉として聞く。

【園のおたよりから】行事が終わった、そのあとに
保育の現場では、運動会やいもほり遠足などの大きな行事が一段落すると、、それぞれ先生方は早くも次の目標や、次の行事に向けて気持ちを新たにしています。いつも以上に鍵盤ハーモニカの音がきれいに響いています。さて、精進努力とは、自分自身の成長や目標に向かって、心を一つにして取り組むことを意味します。
行事が終わったときの子どもたちの顔には、それぞれのものがあります。できてうれしかった顔、うまくいかなくて悔しかった顔、練習を重ねたことを知っている先生の顔。結果だけを見ていると、そこへたどり着くまでの時間を忘れてしまいます。
私は、努力することは大切だと思います。ただ、努力という言葉は、ともすると「もっと頑張れ」という命令にもなります。人によって体力も置かれた状況も違うのに、同じ物差しで比べてしまうことがあります。今日は、頑張ることを勧めるだけでなく、その言葉を使う私自身の姿も考えてみたいのです。
精進とは、誰かに勝つことではない
仏教には「精進」という言葉があります。私たちは普段、精進というと、一生懸命に努力することを思い浮かべます。それも大切な意味の一つでしょう。
けれど、「誰より早くできた」「誰より上手だった」ということだけが精進なのだとしたら、どうでしょう。最初から誰かと比較し、勝つことが目的になってしまいます。そうなると、負けた子には精進がなかったかのように聞こえてしまう。
同じことを今日も繰り返す子がいます。昨日より少しだけ前へ進めた子もいます。外から見れば小さな変化でも、その子にとっては大変な一歩だったかもしれません。まずその歩みを見たいのです。
放逸という、私の姿
やろうと思っていたのに、別のことに気を取られる。これくらいは後でよいだろうと思って、いつの間にか先延ばしにする。私にも、そういうことがあります。仏教には「放逸(ほういつ)」という言葉があります。自分の心を見失って、なすべきことから離れていくような姿を表す言葉として聞いています。
ところが私は、放逸という言葉を聞くと、真っ先に誰かの顔を思い浮かべがちです。「あの人はいつも後回しにする」「あの子は集中していない」。教えを聞いた途端に、ほかの人を採点する道具にしてしまうのです。
少し困ったものです。人を正す前に、私の心はどうか。やるべきことを引き受けずに、もっともらしい理由を並べることが私にはないだろうか。そこを見つめてみたいと思います。
不放逸に努める
不放逸に努めよ
このような言葉を、私は人への号令ではなく、自分に向けられた問いとして聞きたいのです。不放逸とは、何があっても休まず働くことではありません。休息が必要なときに休むのも、いまの自分がなすべき大切なことです。
私たちは頑張っているように見えて、実は目の前の人を見ていないことがあります。仕事を早く終わらせることだけに気を取られ、子どもの小さな声を聞き落としていることもあります。形式どおりにやり遂げても、何のためにその仕事をしていたのか見失ってしまうこともあります。
自分を律するとは、ただ厳しくすることではなく、いまの自分の心がどこを向いているのか確かめることなのではないでしょうか。
やり遂げることと、立ち止まること
「最後までやり遂げる」。子どもたちにも伝えたい言葉です。簡単に投げ出さないこと、できなかったことにもう一度向かってみること。そこで得られるものは大きいと思います。
同時に、続けることだけが正解ではありません。やり方を変えることも、誰かに助けを求めることも、いったん休んで考えることもあります。努力している子どもを、大人の都合で追い込んでしまわないためです。
私たち大人ができるのは、子どもの代わりに結果を出すことではなく、その子が自分の力で取り組める環境をつくることでしょう。そして、うまくいかなかったときにも、その子の存在まで否定しないことでしょう。
自分に帰ってくる教え
仏さまの教えは、いつでも立派なことを言える人になるための飾りではありません。私は知識を増やすほど、分かったつもりで人を見てしまいます。努力や精進を語りながら、私自身が相手を大切にできていないこともあります。
「精進努力」と聞いて、もう少し頑張ろうと思うのは悪いことではありません。ただ、頑張れない人を責める言葉にしない。努力した私を誇るばかりにならない。何のために、誰のために、という問いを忘れない。
子どもたちが一歩ずつ育っていくように、私もまた、教えを聞きながら一歩ずつ歩ませていただきたいと思います。立ち止まったときにこそ、自分の心をたずね直す。その繰り返しが、私にとっての精進なのかもしれません。
南無阿弥陀仏。
淨泉寺 住職 釋延洋


