話を聞く前に、答えを決めていないか
人の話を聞く前に、自分の中で答えを決めていないかを考える。

誰かが相談に来たとき、話を聞きながら、頭の中ではすでに答えを考えていることがあります。
「ああ、それならこうすればいい」「原因はきっとこれだ」「この人は、こういうことを言いたいんだろう」
相手がまだ全部話していないのに、こちらでは、話の結末までつくっている。私にもあります。
聞いているつもりで、待っているだけ
人の話を聞いているとき、本当に聞いているのでしょうか。
相手が話し終わるのを待ちながら、自分が次に何を言うかを考えているだけのことがあります。「それは違います」と言う準備をしている。自分の経験を話す準備をしている。よい助言をする準備をしている。
相手の言葉を聞いているようで、実は、自分が話す番を待っている。そういうことがあります。
答えを出したくなる
人から相談されると、役に立ちたいと思います。特に、住職。先生。親。上司。そういう立場になると、「何か答えなければ」と思います。
でも、答えを持っていることと、相手の話を聞けていることは、同じではありません。
むしろ、「自分は答えを知っている」と思っているほど、聞けなくなることがあります。相手の話を、自分の知っている型に当てはめてしまうからです。
葬儀のときにも
大切な方が亡くなられたご家族のお話を伺うと、さまざまな言葉が出てきます。
「もっと早く病院へ連れて行けばよかった」「もっと優しくすればよかった」「本当によくしてもらった」
そのとき、私は、「そんなに自分を責めなくてよいですよ」とすぐ言いたくなることがあります。もちろん、そういう言葉が必要な場合もあるでしょう。
でも、その方が、まだ話したいことがあるかもしれません。「大丈夫ですよ」という私の言葉によって、話を終わらせてしまうこともあります。
だから、まず聞く。言葉を急がない。そこを大切にしたいと思っています。
子どもの話も
子どもが何か言いに来たとき、大人は、少し聞いただけで分かった気になります。
「また友だちとけんかしたんでしょう」「あなたにも悪いところがあったんじゃないの」「こうすればいいのよ」
でも、最後まで聞いてみたら、最初に想像していた話と、全然違うことがあります。
子どもには、大人のように話を整理することができないこともあります。途中で別の話になる。言葉が出てこない。
だからこそ、こちらが急いで答えをつくらない。少し待つことが必要になります。
私は、何を聞いているのか
仏法を聞くときにも、同じことがあるように思います。
「この話は知っている」「これはこういう意味だ」最初から答えを持って聞く。すると、知っていることしか聞こえてきません。
昔何度も聞いた言葉が、ある日、突然違って聞こえることがあります。言葉が変わったのではありません。聞く私の方が変わった。
だから、聞くということは、自分の中に答えを持ったまま、相手の言葉を分類することではないのでしょう。
もしかすると、自分の考えていることとは違うかもしれない。 その余地を残しておくこと。そこから、本当に聞くことが始まるのかもしれません。
答えより先に
大学時代、先生から、「君はなぜ死ぬのか」と問われたことがあります。先生は、すぐ答えを教えませんでした。
今思えば、あの先生は、私に答えではなく、問いを渡してくださった。その問いを持った時間があったから、後になって聞こえてきたものがありました。
誰かの話を聞くときも、同じなのかもしれません。すぐ答えを渡すことより、一緒に問いを持つ。何か言う前に、もう少し聞く。
私自身、何度も忘れます。だから、何度も自分に聞きたいと思っています。
私は、話を聞く前に、もう答えを決めてはいないだろうか。
淨泉寺 住職 釋延洋
