「いただきます」は、誰に言っているのだろう
毎日口にする「いただきます」。その言葉は、作った人だけでなく、私を生かしている数えきれないご縁へ向かっています。

「いただきます」と言うとき、誰に向かって言っているのでしょう。
作ってくれた人。食材を育てた人。運んだ人。もちろん、それもあります。しかし、たどっていけば、その先はどこまでも広がっていきます。雨や土や光、たくさんのいのち、名前も知らない人の仕事。私は、その全部を数えることはできません。
数えきれないものの上に
私たちは、自分で生きていると思いがちです。自分で働き、自分で選び、自分で食べている。しかし実際には、自分では用意できないものに支えられ続けています。
「いただきます」は、その事実を全部説明する言葉ではありません。むしろ、説明しきれないものがあると気づかせる言葉なのだと思います。
言葉が習慣になっても
毎日同じ言葉を言っていれば、やがて口だけになります。それでも、言い続けることに意味がないわけではありません。ある日、何かのきっかけで、その言葉が急にこちらへ返ってくることがあります。
仏法も同じです。何度聞いても忘れます。分かったと思っても、また元に戻ります。それでも聞き続ける。その中で、いつか言葉が私を照らすことがあります。
「いただきます」は、食事を始める合図であると同時に、私一人では生きていないことを思い出す小さな入口なのかもしれません。
淨泉寺 住職 釋延洋
