ラーの鏡には、私はどう映るのだろう
ゲームに登場する「真実を映す鏡」を借りて、仏法を人ではなく自分自身へ向けることを考えます。

ゲームの中に「真実の姿を映す鏡」が登場することがあります。もし本当にそんな鏡があったら、私は何を見たいでしょう。
おそらく最初は、相手の本心を見たいと思うでしょう。「あの人は本当は何を考えているのか」「誰が正しいのか」。人のことは、とても気になります。
鏡を相手に向けたくなる
仏法の言葉も、つい相手を映す鏡として使いたくなります。「あの人こそ執着している」「あの人は感謝がない」。
でも、教えの鏡が本当に映すのは、まず私自身ではないでしょうか。相手を裁きたがる私、正しい側に立ちたい私、都合の悪いところは見たくない私です。
見たくないものを映す
本当の鏡は、見たい顔だけを映してくれません。仏法も、聞きたいことだけを聞かせてくれるものではありません。
だからこそ、耳が痛いと感じるときがあります。その痛さの中に、自分では見えなかった姿が映っていることがあります。
もし教えが鏡なら、相手に向ける前に、自分の前へ置いてみる。そこから聞法が始まるのだと思います。
淨泉寺 住職 釋延洋

